メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

政教分離主義にもとづく道徳?

15年ほど前だったか、極めてラディカルな脱イスラム政教分離主義者の女性ジャーナリストが、そのコラムの中で「政教分離主義にもとづく道徳」という言葉を使っていた。
保守的な人々が主張していた「イスラムにもとづく道徳」を批判したうえで、「・・必要なのは、民主主義でもなく、政教分離主義にもとづく道徳である」と締めくくっていたように記憶している。
政教分離主義にもとづく道徳」が具体的にどういうものであるかは何一つ記されていなかった。以前の記事に説明があったかもしれないが、それまで彼女のコラムは余り良く読んでいなかったし、その後は殆ど目を通すことさえなくなった。
正直言って、『そんな道徳が何処にあるのか?』と多少呆れてしまったからだ。
ところが、6~7年経って、ある集まりで偶然隣り合わせになり、ビールを飲みながら雑談し始めた相手は、なんとこの女性ジャーナリストだった。
私より、一回り年上だけれど、年齢を感じさせない若々しさで、新聞のコラム欄に載っている写真からは想像できないほど美人である。そのため、頂いた名刺を見て、ようやく誰と話しているのか解って驚いた。
それは、何か出版記念のような集まりだったと思う。私は出版社の知り合いに誘われて、只でビールが飲めると言うから、のこのこ出かけたような覚えがある。来ていたのは、皆、作家やジャーナリスト、文化人といった人たちばかりで、なんだか随分場違いな所に転がり込んでしまったように感じていた。
女性ジャーナリストの方は、私を日本のジャーナリストか何かと勘違いしていたのかもしれない。とても気さくに向こうから話しかけて来た。
会場に椅子はなく、小さな丸テーブルの周りに3人集まってビールを飲んだ。もう一人は、男性のやはりジャーナリストらしき人だったけれど、口数が少なく、あまり印象に残るような話もしていない。
彼女は、私じゃなくて、もちろんこの男性に向かって論じていたのだと思うが、「トルコでコーランに対する批判的な検証が可能になるまでは、民主主義を停止させるべきだ」と力説していた。
それで、民主主義ではなく、あくまでも「政教分離主義にもとづく道徳」ということになるらしい。
クーデター事件後の7月25日、NTVのニュース番組で、アデム・ソズエルという法律学者は、「トルコには、コーランを科学的に検証できる研究機関が何処にもない。これを是非作ってもらいたい」と提案している。
あれから10年近く過ぎた今日、いよいよトルコは、ラディカルな政教分離主義者の彼女からも“民主主義”を容認してもらえるレベルに達しつつあるかもしれない。
以下の“通信”でお伝えした、イスラム学者のエクレム・デミルリ氏が、ISとイスラムフォビアについて語っている場面を見る限り、トルコのイスラム学界は、既に「コーランを科学的に検証できる」下地を充分に備えているのではないか。

 しかし、これから民主主義がさらに発展して、如何にコーランが科学的に検証されようとも、トルコの道徳は、従来通りイスラムを中心とする諸々の伝統にもとづいて受け継がれるに違いない。
長い歴史の中で築き上げて来た道徳律を、新しく作り変えてしまうのは、適切とも思えないし、可能でもないだろう。
「新しい道徳」を主張する人は日本にもいるけれど、結局は、戦前の教育勅語などから改良を試みて行くのが最善のように思える。
山で道を間違えたと気づいたら、分岐点まで戻るのが当たり前で、やみくもに進もうとすれば、遭難のリスクを高めてしまうはずだ。