メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

人間は必ず死ぬ/犠牲祭

 7月15日のクーデター事件後、多分、西欧の放送局によるインタビューだった。エルドアン大統領は、「アタテュルク空港への着陸を強行した際、死の危険を考えなかったのか?」という問いに対して、「人間は必ず死ぬんですよ。突然、交通事故で死ぬかもしれないしね。それが人生というものです」と事も無げに答えていた。

このインタビューで、エルドアン大統領が明らかにしたところによると、エミネ夫人は、「クーデターに立ち向かって犠牲になるなんて、とても羨ましい死に方だ」と語っていたそうである。

いずれの発言も、日本であれば、ごうごうたる非難を浴びたに違いない。「200人以上の方が亡くなっているのに、『必ず死ぬ』とか『羨ましい』とは何事か!」と言われてしまうだろう。

ところが、トルコでは、あまり話題にもなっていない。おそらく、反エルドアンの左派からは、非難の声が上がっていたのではないかと思うけれど、平和を愛する日本の人たちほど、彼らも「死」に対しては過敏な反応を見せたりしないらしい。

なにしろ、中には、かつて“軍事クーデター”によるエルドアンの“失脚”であるとか“死”を期待していた人たちもいるのである。

そのため、反対派も、エルドアン大統領夫妻が、以前からクーデターや暗殺の危険にさらされて来たのは、秘かに認めているような気がする。エルドアン大統領には、「死の覚悟」を語る資格が充分あったと思う。

しかし、人間が必ず死ぬのは、当たり前なことであるし、歴史の中で語られて来た日本人の死生観も、エルドアン大統領の発言と何ら変わるところはなかったはずだ。

小津安二郎の映画などを観ても、人間の死は、ありきたりな日常として描かれていたりする。小津安二郎へのオマージュとして、1988年に制作されたテレビドラマ「今朝の秋」にも、そういった死生観を表す印象深い場面があった。

癌で余命幾ばくもない未だ50代の男と、彼を慰めようとする80代の父親が語り合う場面である。

父「案外、わしのほうが(死は)早いかもしれん」
子「そんなことはないけれど・・・」

父「多少の前後はあっても皆死ぬんだ」
子「そうですねえ、皆死ぬんだよねえ」

父「(だから)特別のような顔をするな」
子「言うなあ、ずけずけ。しかしねえ、こっちは未だ50代ですよ。お父さん80じゃない。少しは特別な顔するよ」

こう言い合って、2人で泣き笑うのである

このドラマ、トルコでも放映できないだろうか? 多くのトルコの人たちから共感を得られるに違いない。

さて、今日は、犠牲祭の第一日目だった。年々規制が厳しくなって、イスタンブール市内の場合、もう所定の施設以外では、生贄を切る儀式を行えなくなっているけれど、イエニドアンは市内と見做されていないのか、庭先で羊を切っていた家もある。でも、テントで覆うなどして配慮している所が多かった。

最近の日本は、私たちの豊かで平和な生活のために犠牲となっている存在を、なるべく意識の向こうへ遠ざけているかのようだ。これは、「肉を食べているのに、屠殺は見ないで済ませようとする」といった象徴的な例だけに限らない。

競争に敗れ、社会の隅に追いやられてしまうのも、繁栄の為の犠牲と言えるはずだが、それさえ「競争をやめよう」などときれいごとを言って片付けようとする。社会、そして生死の厳しさを教える昔話や童話も、皆ハッピーエンドに書き換えてしまうらしい。

こんなことが「平和ボケ」と呼ばれる現象の要因になっているのではないだろうか。良い時代に生まれ育った私も、繁栄と平和を空気のように吸ってきたため、トルコへ来てから、やっとその有難さが少しだけ解った。

日本で、生贄を切る儀式まで実践するのは難しいが、犠牲祭を祝って、その意義を考える機会にしたら良いと思う。

例えば、戦前、日本は、国内にこれといった資源がないため、資源を求めて大陸へ進出し、悲惨な戦争に明け暮れた。そして、太平洋戦争で叩きのめされ、やっと武力を放棄して平和な国になる。そのうえ、戦後になって、「資源を利用するのは諦めた」なんてこともない。それどころか、その消費量は何倍も増加している。

戦後の世界では、欧米が軍事力を背景にして産油国等を間接的に、あるいは直接武力を使って支配した。こうして多くの犠牲によって成り立った秩序の中で、日本も資源を調達し続けて来たのである。

つまり、戦前は直接関わっていたのに、戦後はそれが間接的になって見えなくなっただけではないのか? これは、肉を美味しく食べながら、屠殺の光景に目を背けているのと変わらないだろう。

2005年1月21日付けラディカル紙のコラムで、ヌライ・メルト氏は以下のように述べていた。

「この世界で生きることにはそれなりの代価があるはずだ。私たちの近くに存在する生物の命は、この代価を思い出させる為に重要である。近代的な思考の薄弱さは、代価を支払わずに生きていけるという虚構へ逃れようとしてしまう。これは人間の感受性を高めたりはしない、逆に人間を鈍感にさせ、無責任なものにする。・・」(拙訳)


ひょっとすると、戦前に比べて戦後の日本は、とても鈍感になってしまった・・。時として自ら手を下してきたアメリカは、遥かに感受性が高いかもしれない。