メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

トルコ語の小説「イエシル・ゲジェ」

 昨年の11月以来、長いこと中断していたトルコ語の読書を再開した。レシャット・ヌーリ・ギュンテキンの「イエシル・ゲジェ」という作品。1928年に出版された小説で、オスマン帝国の末期を舞台にしているため、古い言葉がたくさん出てきて、とても難しい。少し間を置いてしまうと、再び読み始めるのに、よっこらしょという気合が必要になる。
小説の主人公シャーヒン・エフェンディは、オスマン帝国の末期、新しい西洋式教育の責任者として、地方の小学校に赴任する。ところが、校舎を新設するために、古い廃墟同然の“メドレセ(旧来のイスラム教育機関)”を取り壊すことになると、メドレセの関係者たちが、激しくこれに抵抗する・・・。昨年、この場面まで読み進めていた。
著者のレシャット・ヌーリ・ギュンテキンは、オスマン帝国の末期に、やはり教育者として地方の学校へ赴任しているので、この小説は、かなりの部分が自身の体験に基づいて書かれたそうである。
メドレセに立て篭もる妄信者たちは、様々な迷信を持ち出して、人々を惑わし脅かそうとするけれど、これが実に生々しい描写で延々数ページに亘って続き、多少辟易させられた。
しかし、小説の中で、シャーヒン・エフェンディは、仕事も家族もある民衆が、彼らを惑わそうとするメドレセの妄信者たちから、それほど影響を受けていないことに気がついて、これに希望を見出している。「つまり、自分の世界のごたごたで忙しい本来の民衆・・・」と説明されているが、これもレシャット・ヌーリ・ギュンテキンの実際の観察によるのだろう。
小説の後半では、この妄信者たちの実態が、さらに明らかにされて行くらしい。そこまで読み進めてみなければ解らないが、あの場面では、メドレセに立て篭もる異様な行動があくまでもその宗教的な妄信によって導かれているように記されていた。
これは、どうなんだろう? 私には、優越性を失うことへの焦燥が何処かに潜んでいたようにも思える。
西洋式の新しい教育が入って来るまで、メドレセの卒業生たちは、それほど出来が良くなくても、ある程度は“イスラムの教義の権威”として、民衆から敬意を得られていたのではないだろうか。そのステータスが失われそうになれば、当然、必死に抵抗を試みたかもしれない。
実を言うと、私は、妄信者がメドレセに立て篭もる場面を読んでいて、なんとなく、一昨年イスタンブールのゲズィ公園に立て篭もっていた人々を思い出してしまった。こんなこと言ったら怒られるが、彼らをデモに駆り立てる要素の中にも、“優越性を失うことへの焦燥”は潜んでいたような気がする。
パキスタンの物理学者パルヴェーズ・フッドボーイ氏は、「どんな宗教も、その宗教の優越性とその宗教を他者に押しつける神聖な権利についての絶対的な信念を扱うのである」と述べているけれど、全ての人間にとって、優越意識の扱いは、あまり触れられたくもない、悩ましい問題じゃないかと思う。
これを失うのはとても悲しい。時して、暴力的な行動の引き金になってしまうとしても不思議ではない。宗教を理由に掲げるテロにも、こういった要素は潜んでいないだろうか?

merhaba-ajansi.hatenablog.com