「イエシル・ゲジェ(緑の夜):Yeşil Gece」は、トルコ共和国成立後の1928年に出版されたレシャット・ヌーリ・ギュンテキン(Reşat Nuri Güntekin:1889~1956)の小説で、オスマン帝国が崩壊して共和国革命に至る激動の時代を背景にしている。
小説の主人公シャーヒン・エフェンディは、オスマン帝国の末期、新しい西洋式教育の責任者として、地方の町の小学校に赴任する。
ところが、校舎を新設するために、古い廃墟同然の「メドレセ(旧来のイスラム教育機関)」を取り壊すことになると、メドレセの関係者たちは、激しくこれに抵抗する。
その町でイスラムの指導者として知られていたエユップ師もシャーヒン・エフェンディの聡明さに危機を感じ、足を引っ張ろうと秘かにメドレセ取り壊しに反対する抵抗運動を支えていた。
しかし、抵抗運動は下手な小細工から失敗に終わり、シャーヒン・エフェンディの名声はいよいよ高まったが、まもなく一帯は侵略してきたギリシャ軍に占領されてしまう。
すると、エユップ師は、直ぐ様ギリシャ側へ寝返って、シャーヒン・エフェンディを彼らに売り渡す。
捕縛されたシャーヒン・エフェンディはギリシャに連れて行かれ、艱難辛苦の末、共和国革命の後になって、ようやく赴任先の町に戻って来て驚く。
エユップ師が、モダンな帽子を被って、すっかり「共和国の人」に様変わりしていたからだ。
そして、シャーヒン・エフェンディは、エユップ師の偽証により、またしても町を追われて行くのである・・・。
著者のレシャット・ヌーリ・ギュンテキンは、オスマン帝国の末期に、やはり教育者として地方の学校へ赴任しているので、この小説は、かなりの部分が自身の体験に基づいて書かれたのではないかと言われている。
西欧的な文化人であり、新しいトルコを望んでいたレシャット・ヌーリ・ギュンテキンは、オスマン帝国時代の問題はイスラムにあったと考えていたようだけれど、変幻自在に立ち回るエユップ師を見たら、オスマン帝国時代のイスラムにしても、共和国の政教分離にしても、上からの圧力で画一化を図ろうとした所が問題だったようにも思える。
メドレセ取り壊しに反対する抵抗運動が描かれる場面では、メドレセに立て篭もった関係者らが、様々な迷信を持ち出して、周囲の人々を惑わし脅かそうとする。
ところが、シャーヒン・エフェンディは、仕事も家族もある民衆が、彼らを惑わそうとするメドレセの関係者たちから、それほど影響を受けていないことに気がついて、これに希望を見出している。
「つまり、自分の世界のごたごたで忙しい本来の民衆・・・」と説明されているが、これもレシャット・ヌーリ・ギュンテキンの実際の観察によるものと考えられる。
しかし、あの場面では、メドレセに立て篭もる異様な行動があくまでもその宗教的な妄信によって導かれているように記されていた。
これは、果たしてどうなのだろう? 私には、優越性を失うことへの焦燥が何処かに潜んでいたように感じられた。
西洋式の新しい教育が入って来るまで、メドレセの卒業生たちは、それほど出来が良くなくても、ある程度は「イスラムの教義の権威」として、民衆から敬意を得られていたのではないか。
そのステータスが失われそうになれば、当然、必死に抵抗を試みたかもしれない。
実を言うと、私は、関係者がメドレセに立て篭もる場面を読んでいて、なんとなく、2013年の6月、イスタンブールのゲズィ公園に立て篭もっていた人々を思い出してしまった。
こんなこと言ったら怒られるが、彼らをデモに駆り立てた要素の中にも、「優越性を失うことへの焦燥」は潜んでいたような気がする。
パキスタンの物理学者パルヴェーズ・フッドボーイ氏は、「どんな宗教も、その宗教の優越性とその宗教を他者に押しつける神聖な権利についての絶対的な信念を扱うのである」と述べているけれど、全ての人間にとって、優越意識の扱いは、あまり触れられたくもない、悩ましい問題であるかもしれない。
これを失うのはとても悲しい。時して、暴力的な行動の引き金になってしまうとしても不思議ではない。宗教を理由に掲げるテロにも、こういった要素は潜んでいないだろうか?
さもなければ、仕事も家族もある自分の世界のごたごたで忙しい人たちが無謀な行動に出ることはないと思う。これは「イエシル・ゲジェ(緑の夜)」の時代も今も変わらないはずである。
人は何よりもまず、働いて食べて生きて行かなければならない。そのため、思想信条などより経済活動を最優先にしているはずだ。イデオロギーや宗教で飯が食えてしまう人は、それが経済活動になっているだけだろう。