メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

アレヴィー派の断食

昨日は、家から歩いて30分ぐらいのギョズテペという地区にあるアレヴィー派の礼拝所へ行って来ました。アレヴィー派は、トルコでイスラムの主流となっているスンニー派から異端視されているイスラムの宗派ですが、オスマン帝国の初期にはアレヴィー的な傾向が却ってトルコ人の主流を占めていたと言われ、現在でも1千万~1千5百万人のアレヴィー派がトルコに存在しているという説もあります。

アレヴィー派は、イスラム暦ラマダン月にではなく、ムハレム月に12日間の断食を行なうことが知られていて、先週はエルドアン首相がアレヴィー派のイフタル(日没後の断食明けの食事)に参加したことも話題になりました。このアレヴィー派の断食は今日が最終日となるため、昨日、どんな様子だろうと思って出かけてみたわけです。

礼拝所はかなり広い敷地の中に建てられており、敷地内には食堂やアレヴィー派についての授業を行なう教室もあります。私は昨年、この教室で学んでいるトルコ人の方に案内されて初めてここを訪れました。この方は、トルコの聾唖学校で宗教の授業の担当している先生であり、もちろんスンニー派ですが、「オスマン帝国を築いたのはアレヴィー派の人々でした。アレヴィー派の豊かな文化を知らなければ、トルコの歴史・文化が解っているとは言えません」と仰っていました。

昼過ぎに着いて、まず教室を覘いてみたところ、昨年来た時に知り合った青年から「やあ、ニイノミ!」と声をかけられので、「良く名前まで覚えていてくれたね」と喜んだら、「日本人の知り合いは今のところ君しかいないから」と言われたけれど、これは確かに一理あるかもしれません。

次の授業を見学してから教室を出ると、このアナトリア東部エルジンジャン出身の青年は、近くにいた友人二人を紹介してくれました。彼らはシヴァスとエラズーの出身。いずれもアナトリアの中東部に位置する地方です。それから中庭のベンチに腰掛けて雑談を始めたところ、驚いたことに、二人の女性が中庭にいる人たちへパンとお菓子を配っていて、それを美味しそうに頬張っている人もいます。青年たちは一様に断食中といって受け取りませんでしたが、戒律の緩やかなアレヴィー派らしい光景じゃないかと思いました。

彼らは断食しているから、その期間中に酒を飲むことはないと言うものの、アレヴィー派は普段の飲酒を禁じることもなく、地方の農村でもアレヴィーの村であれば皆普通に酒を飲んでいるそうです。

この礼拝所では、日曜日にセマーと呼ばれる礼拝の儀式が執り行われますが、この儀式には女性も男性と共に参加し、歌や舞踊を伴うなどイスラムとは思えない光景が繰り広げられます。

しかし、こういった特異性の為に、主流のスンニー派からは異端視され、いわれのない風説が流布されたりもしました。その一つに“アレヴィーの蝋燭祭り”などというものがあり、「アレヴィーの村では男女が一つの部屋に集まり、蝋燭の火が吹き消されると乱交が始まる」などと語られたりしたものです。私は92年にイスタンブール学生寮にいた時、スンニー派の学生たちが、この怪しげな都市伝説みたいなものの真否を真面目に討論しているのを見て、思わず背筋が冷たくなったことを覚えています。

ちょっと話は変わりますが、仏教やキリスト教も含めて多くの宗教に見られる、こういった性、特に女性の“性”を汚らわしいとする発想は実に悲しいものではないでしょうか。性を謳歌する若者たちを卑劣な手段で殺してしまうことは恥ずかしいと思わず、自分たちをこの世に送り出した愛の営みを汚らわしいと感じる悲しさ。ところが、そういう男たちには、女性の“性”に対する敬意がないものだから、その性的傾向は得てしてなかなか貪欲で見境がありません。

女性の頭を剃髪したり、スカーフで覆ったりするのも同じ発想から来ているように思えてならないけれど、一途に信じてスカーフを被っている敬虔な女性に、いったい何を申し上げたら良いのでしょう。それに、スカーフに反対する“進歩的”な男たち(トルコ人に限らず)と話してみると、女性の“性”に対する敬意の無さは上記の男たちとそれほど変わらない場合もあって愕然となることもあります。

昔、イズミル学生寮で“性の解放”について議論したら、ドイツ帰りの学生は、「ドイツでは、女性が独立しているから性を解放できるけれど、今のトルコで性を解放すれば、女性が玩弄されるだけだ」と主張していました。その通りかもしれません。

閑話休題、アレヴィー派の話でした。このホームページで「トルコには民族的な差別が少なく、各々の民族的出自は結婚において問題にならない」というように書いたこともありますが、残念ながら、アレヴィー派に関してはそうでもありません。相手の民族的な出自はそれほど気にならなくても、宗派の違いは大きな問題にしてしまうことがまだまだ多いようです。この日も、青年たちから「日本では宗派による差別が存在しているのか? 好きになった娘と結婚できなくなってしまうようなことがあるのか?」とさんざん訊かれました。

夕方、日没の時間が近づくと、青年たちは「食堂でイフタルの食事が無料で配られるから君も是非食べて行って下さい」と勧めます。それで私もお言葉に甘えることにしたのですが、このアレヴィー派の施設は、スンニー派のモスクのように国が管理しているわけではありません。国から財政的な支援も受けていないそうです。食堂は2百人ぐらいは入れそうな大きさで、「これを篤志家の援助で賄っているのは大変なことだろう」と忝く思いました。

食堂の外で順番を待っている時、シヴァスの青年は直ぐ隣に見えるモスクを示しながら、「隣は我が兄弟たちのモスクなんだよね。あの塔についているスピーカーを見てよ。わざわざこっちに向けてあるじゃないですか。あれで彼らの礼拝時間になると大音量でアザーン(礼拝への呼び掛け)を流すんだから、困ったものだねえ」と苦笑いします。エルジンジャンの青年によれば、施設の敷地内にある野外ステージでコンサートを開いた時は、アザーンを大音量で延々30分以上流し続けたそうです。

彼らもこういった仕打ちに対して一矢報いようということなのか、シヴァスの青年は次のような話を聞かせてくれました。

「いつだったか、ラマダンの時に村から近くの町へ買い物に出たんですよ。村はアレヴィー派の村だからモスクも無いし、ラマダンでも皆飲んでいます。村の友人にビールも頼まれたから、まず町でビールを売っている所を探すと、これは直ぐに見つかりました。あの保守的なシヴァスの田舎町でも一応ラマダンにビールを売っている店があるんですよね。店の奴に“エフェス・ビールを5本”と言ったら、マルマラ・ビールしかないという話だから、他所を探すと言えば、店の奴、“お前、ラマダンに他所でビールなんて探し歩いたら殺されるぞ。他にビールを売っているところなんて無いから、大人しくここでマルマラを買って行け”なんてことをぬかすんですよ。それで僕は、マルマラを5本買うと、わざわざビニール袋の中のビールが見えるように持ち、ビールをガチャガチャいわせながら、町の中を暫く練り歩いて他の買い物を済ませ、帰りがけにまたビールを買った店の前を通ったら、奴が店の前に立っていたから、ビールの入ったビニール袋を振りながら、“殺されなかったよ”と言ってやったら、野郎、驚いた顔して店の中へ入って行ってしまいましたよ」。

まあ、これぐらいなら御愛嬌といったところでしょうか。ところで、日没後の食事がどうなったかと言えば、私たちは一番最後の方に並んでいたので、結局ありつくことができませんでした。私はともかくとして、断食していた青年たちには可哀想なことですが、彼らは私に向かって、「わざわざ誘ったのに、食事が残っていなくてすみません」としきりに謝っていました。もともと無料で配っている食事ですから、残っていなくても文句は言えないでしょうね。