メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

市バスの痴漢

昨年の11月、タクシムへ向かう市バスに乗っていた時のことです。朝の通勤時間とあって車内は多少混んでいたけれど、立っている乗客たちの間を縫って車内を移動できるくらいで、すし詰め満杯というほどではありません。私は中央降車口の前に立ってボンヤリと外の街並みを眺めていました。

そこへ突然、後ろの方から、女性の金切り声が聴こえてきたのです。

「あんた何触ってんのよ! 私に触るとそれがあんたの利益になるわけ? 恥知らず!」。

何事かと思って振り返ると、2mほど離れたところで、20代後半と思しきOL風の女性が恐い顔して未だ大きな声をあげており、女性と同年輩ぐらいの男が険しい表情で俯きながら素早く降車口の方へ歩み寄りました。

どうやらその男が痴漢行為を働いたようですが、ごく普通な身なりをした中肉中背の男で、私の直ぐ横に立つと俯いたままじっとしています。女性は尚も男の背中に向かって罵倒の言葉を浴びせていたけれど、男はじっとしているし、他の乗客もあっけに取られて見守るばかりで反応を示しません。

それから、1分もしなかったのではないかと思いますが、バスが停留所に止まると、男は俯いたままさっと降りて行きました。

その後のことです。バスが再び走り始めてから、私の直ぐ後ろに立っていた中年の男は女性の方へ向き直り、

「御婦人、あなたは立派なことをなさいましたよ。ああいう男を許してはいけません。このバスには、明日、私の妻や妹が乗るかもしれないわけですからね。いやあ全く、あなたの行いに感謝しますよ」と言い、その向かいに立っていた男も、

「その通りですね。あの男は警察に突き出してやった方が良かったかもしれない」と意見を述べ、これに対して、また別の男は、

「警察に突き出す? いやあそんな必要はありません。殺してやれば良かったんですよ、あんな男は!」と憤慨した様子で話し、車内は俄かに活気を帯びてきました。

しかし、警察に突き出すとか殺すとか、色々な意見が出ているものの、当の痴漢はとっくにバスを降りて消え失せているから、もうどうすることもできません。話題は直ぐに尽きて、皆もとの方向に向き直って黙ってしまい、バスはそのまま何事もなかったかのように走り続けたのです。

先日、この顛末をトルコ人の友人に話したところ、彼は「トルコも変わったなあ」と驚いていました。彼によれば、一昔前だったら、そんな男は必ずその場でリンチされてしまったそうです。

しかし、あの場面で、男をリンチしたり警察に突き出したりしていれば、皆、間違いなく会社の出勤時間に遅れてしまったことでしょう。まあ、今のトルコには、会社の出勤時間を無視してまで、痴漢退治に奔走するような物好きは余り残っていないのかもしれません。