メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

トルコの人たちの民族意識

《2003年4月7日付けの記事を修正加筆して再録》

2003年の1月、私は3年半に亘って働いた邦人企業のトルコ現地生産工場を辞めて、アダパザル県のクズルック村に別れを告げることになった。

この期間、社内での立場もあり、トルコ人の同僚から自宅へ招待されても殆どそれに応じて来なかったが、退社を3日後にひかえ、ライン長として働く青年のところへ呼ばれてみることにした。

この青年はグルジア人で、グルジアとの国境に近いアルトゥビン出身のお父さんはグルジア語も解ると聞いていたので、前々から少し興味があったのである。
青年の家は隣村に在り、両親と3人暮らし、他の兄弟はブルサ市で働いているそうだ。

夕食の席には隣家に住んでいるという工場の同僚も加わった。彼はアナトリア東部のエルズルム出身である。
食卓には、ちょっとめずらしい揚げパンのようなものが供されていた。

お父さんは、「こういうパンは、我々に特有なものなんですよ。トルコでは地方ごとに変わった食べ物があります」と明らかにし、エルズルム出身の同僚を指しながら、「たとえば、彼の故郷に行くと、また違うはずです」と言い添えた。

食事が終わり、お茶の時間になると、お父さんはトルコの国情について語り始めた。
「トルコには色々な民族がいます。我々はグルジア人だし、この辺だけでも、ラズ人、アブハズ人、クルド人等々、本当に様々です。でも、全てムスリムで、皆トルコ人。民族の間で差別なんてありませんよ」
私も同感の意を表して、「そうですね。『トルコ人』というから、普通のトルコ人かと思っていると、知り合って3ヶ月ぐらいして、その人がクルド語で話しているのを聞いて驚いたこともあります」と自分の見聞を例にあげた。

すると、エルズルム出身の同僚がニヤニヤしながら、「マコト、君はクルド語も少しは解るのか? 何か言ってみなよ」と言うので、唯一知っている挨拶の言葉で「チュワニバシィ」とやってみた。

彼は「バシィ! ナンタラ~ホンタラ~」とクルド語でまくし立ててから、「おい、3ヶ月どころじゃなくて、君は3年もの間、俺がクルド人だって知らなかったろう。ハッハッハッ」と笑った。

 それから、お父さんはこんな話も語ってくれた。
「クズルックから、もっと奥へ入った村に行くと、あの辺にはエシェックチ(ロバを使って荷物等を運んだりする人)と言われている連中もいます。なんでそう言われているのかは知りませんがね。この辺じゃ昔から彼らのことをエシェックチと呼んでいるんです。彼らは元々この地域に住んでいて、我々のようなトルコ人とはちょっと違います。なんでも『本当のトルコ人』とか言っているトルコ人です」
トルコ語でロバというのは、明らかに侮辱用語である。山内昌之氏の「民族と国家」によれば、オスマン帝国の時代、帝国のエリートは自分達をオスマン人と意識していて、「トルコ人」と言った場合、それはアナトリアの農民や遊牧民のことを指し、多少侮蔑的な響きがあったらしい。

2002年、AKP政権が成立して国会議長に選ばれたビュレント・アルンチ氏のルーツはアナトリア遊牧民であると報道されたら、クズルック村工場のトルコ人同僚は、「それじゃあ正真正銘のトルコ人だ」と蔑むように笑っていた。

アルンチ氏はちょっと色黒でアジア系のモンゴロイドというよりインド辺りの人を思わせる風貌だが、同僚のエンジニアは、とても色白だった。

彼は、観光地として有名なサフランボル近くの村の出身で、バルカン半島から移住してきたという村の住人たちも皆色白であるらしい。

どうやら、ルーツがモンゴロイドであるよりは、コーカソイドの白人である方が誇らしい気分になれたようである。

さて、グルジア人の家庭で夕食を御馳走になってから10日ほど後のことである。

クズルック村を離れてイスタンブールに居た私は、イスタンブールのトゥズラ工場で働いている元同僚を訪ねた。

彼はクズルック村の出身であり、同郷の女性と結婚して、今はトゥズラの近くに所帯を持っている。

私がトゥズラ工場に勤務していた頃は、私と会社の寮で寝泊りして、週末は共にクズルック村へ帰った。

とんでもない酒豪(だったと言うべきか。彼も結婚して以来余り飲まなくなった)で、およそ敬虔なムスリムと言えない彼は、イスラム民族主義政党MHPの熱烈な支持者であり、よく自分達のルーツは中央アジアであると誇っていた。
ところが、今回、夕食を御馳走になってから雑談していると、「俺たちはラズ人なんでへそ曲がりなんだ」というような話をする。

「あれっ、中央アジアトルコ人じゃなかったのかい?」と突っ込みを入れてやると、「ラズ人も元々は中央アジアトルコ人だったのだ」とかわしてから、「ちょっと待て。ラズ人の風俗を紹介した雑誌の特集記事があったから、お前に見せてやろう」と言って部屋を出て行くと、暫くして「ナショナル・ジオグラフィック」のトルコ語版を片手に現れ、「ほらっ、この写真の民族衣装を見てみなよ。うちのお祖母さんもこれと全く同じ格好をしていたよ」と言う。

雑誌を手にとって良く見ると、写真の下に「民族衣装をまとったチェプニ人の女性」とある。

それで、トゥズラ工場で働くチェプニ人女性の話を持ち出して、「チェプニ人もラズ人なのかな? ギリシャ語を話していたって聞いたけど」と訊くと、
「誰が言ってた? セルダか? ああ確かに彼女もチェプニ人だよ。しかし、ギリシャ語話していたなんて、勝手にそう思っているだけなんじゃないのか? チェプニ人もラズ人の一派のはずなんだがな」

「ふーん、それでこの雑誌には『ラズ人も中央アジアからやって来た』なんてことが書かれているわけ?」

「いや、残念ながらグルジアギリシャから来たようなことが書かれている」

こう言ってから、「ハッハッハッ」と笑った。

さらに、「ところで、君の奥さんは何なの? やっぱりラズ人?」と訊いてみると、「お前、エシェックチって知らないか?」

「知っている。その話はつい先日聞いたばかりだよ。本当のトルコ人ってやつだろ」

「そうそう、それ。俺の女房はそのエシェックチなんだよ。ラズ人とか、アブハズ人とか言ってる俺たちのようなトルコ人とは違って正真正銘のトルコ人だぜ。ハッハッハッ」

「でも、昔はギリシャ人だったのが、イスラムに改宗してトルコ人になっただけかも知れないよ」

「いや、あれのルーツは中央アジアだよ。だって、女房の目を見てみなよ。君たちみたいにちょっと吊り上っているだろう」

彼はこう言ってまた笑っていたが、確かに彼女の風貌はちょっと東洋的と言えるかも知れない。

しかし、これでトルコ人の持つ民族意識というものが、ますます解らなくなってしまった。とにかく、お互いの民族的ルーツを余り気にしていないのは確かだと思う。
20年の長きに亘ったクルド反政府ゲリラの活動により、トルコ、特にアナトリアの南東部はすっかり疲弊し、クルド人とそうではない「トルコ人」との間に摩擦も生じるようになった。

それでも、決定的な亀裂が生じてしまったとは思えない。イスタンブールなどでは、相互の婚姻も相変わらずだ。これは、ちょっと奇跡的なことではないかと思ったりもする。

一般市民が反政府ゲリラのクルド人とその他のクルド人を別けて考えることが出来ているのだろう。

それに、お互いに別の民族であるというより、同じムスリムであるという意識の方が強いのかもしれない。
各民族の文化、言語をどこまで維持、もしくは発展させて行くのか、これはとても難しい問題だ。

しかし、トルコ共和国トルコ語を唯一の公用語と定めて、国民が等しくトルコ語で教育を受け、何処でもトルコ語が通じる社会を目指したのは、近代的な国家を作るうえで必要なことではなかったかと思う。

日本でも近代化の過程で多くの言語(方言)が失われたのである。

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電気ポットに寿命が来てしまった・・・

一昨日、2021年の4月以来使ってきた電気ポットが壊れてしまったので、今日、姫路のエディオンで新しい電気ポットを購入してきた。

価格は2700円、旧ポットも同じくらいの価格じゃなかったかと記憶しているが、3年以上使用できたのだから上出来だったと思う。

その前のポットは、福岡にいた頃に購入したもので、価格は倍近かったはずだけれど、やはり4年経たずに壊れている。いずれも、スイッチの接触が悪くなって作動しなくなった。どうやら、こういった機器は3~4年が寿命になっているらしい。

他にも、高砂に越してきて以来使っている自転車が、いよいよ寿命を迎えそうな気配である。こちらは5年ほど持ち堪えているが、ポットのように安くはないから、とても痛い出費になるだろう。なんとか、もう少し頑張ってくれるように祈っている。

しかし、もっと重要なのは、使用者本人の健康に違いない。こちらが壊れた場合の出費は、自転車どころの騒ぎじゃないはずだ。幸い、仕事自体が結構な運動になっているので、今のところ問題はないものの、いつの日か寿命は来るのである。

さて、今日は余り天気が良くなかったけれど、姫路城の辺りまでぶらぶら歩いて、ベトナム料理を食べて来た。最近は姫路にもベトナム料理店が増えたようである。

久しぶりに食べたベトナムの春巻きは実に美味かったが、これも健康だから味わえるのである。有難いことだと思う。





少子化対策:「一人っ子政策」の逆は有りえるだろうか?

少子化の問題に対して、「日本の人口は約7千万が最適」と論じる人たちもいる。

しかし、7千万以下に減少した後、出生率が再び「2.00」ぐらいまで回復する見込みはあるのだろうか? 

おそらく無いと思う。そもそも、「人口が増えすぎたので、女性たちの意識が変わって、子供を余り産まなくなった」という過程ではなかったのである。

日本に限らず、女性が高学歴化した社会は、何処でも出生率が低下している。

日本の周辺を見ても、中国や韓国は言うに及ばず、ベトナムやネパールでも出生率の低下は進んでいるらしい。

そのため、こういった国々から移民を受け入れたとしても、いずれは限界が見えて来そうな気もする。

これは、最早、「人類の未来の問題」と言っても良いのではないか。人類は他の動物と異なり、出産を本能で行っているわけじゃないからだ。

かつて、「最適の人口」を求めて、「一人っ子政策」を断行した中国も、少子化に歯止めが掛からず、大きな問題になっているという。

この問題を解決しようとすれば、「一人っ子政策」の真逆を断行するよりない。つまり、国家が強制的に「妊娠~出産」させるのである。

ひょっとすると、そこまでの「強制」はないにしても、これに近い政策を中国は将来的に実施するかもしれない。

一人っ子政策」という、人権を無視した非民主的な政策も有無を言わさずに強要したのだから、その逆があっても不思議ではないと思う。

「人権や自由を守っていたら、社会が衰退し滅んでしまうのであれば、それにいったい何の価値があるのだろう? それよりも『繁栄と人々の幸福』を実現するのが国家の使命である」と言われたら、民主主義を有難いと思って来た私は、何と反論したら良いのか解らなくなってしまいそうである。

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「犠牲祭の思い出」

《今日は、イスラムの犠牲祭なので、2007年1月3日付けの駄文を修正再録し、24年前、2000年の犠牲祭の思い出を振り返ってみたい。

2000年の犠牲祭は、黒海地方のオルドゥ県で友人の家族と過ごした。
当時、友人はオルドゥ県の黒海に面したユンエという小都市で小・中学校の教員をしていたが、犠牲祭の休暇に入ると、ユンエから山間に暫く入った町にある奥さんの実家へ帰省した。
私も犠牲祭が始まる前日の晩に町へ入り、友人と共に奥さんの実家で犠牲祭の朝を迎えた。

犠牲祭の朝、友人を初め家族の男たちは、先ず町のモスクへ「犠牲祭の礼拝」に出掛ける。私は一緒にモスクの前まで行ったけれど、礼拝には参列せず、その辺を散策しながら、礼拝が終わるのを待った。
多分、この礼拝には町の男たちが全員参列していたのだろう。モスクでは中庭に至るまで、堂内に入りきらない参列者が鈴なりとなって礼拝を営んでいた。
礼拝が済むと、今度はモスクの門前に参列者が並び、順に犠牲祭の挨拶を交わすことになる。

この時、注意して良く見ると、友人の岳父は順列の先頭となる門の直ぐ前に立ち、他の参列者より一層の敬意が込められた挨拶を受けているようだった。

後で友人に訊いたところ、岳父はこの町一番の名士なんだそうである。奥さんの実家は四階建てぐらいのビルで、それほど贅沢な造りでもなかったが、隣のビルも所有していたようだから、やはり相当な資産家だったのだろう。
こういった形式的な挨拶やヒエラルキーには抵抗を感じる人がいるかもしれないけれど、これによって町の安寧秩序は穏やかに無理なく守られていたのではないかと思う。
挨拶も済んで家に戻ると、いよいよ支度をして、生贄を切りに行くわけだが、この年は、少し離れた村に住む親戚の所で切ることになっており、三台の車に分乗して出発した。
親戚の所へ着くと、広い庭では子供たちが牛と羊を相手に遊んでいて、どうやらこの2頭が生贄として屠られるらしい。
準備が整うと早速祈りが捧げられて、先ずは羊から屠りにかかる。おとなしく寝かされた羊の喉の方から切り込んでいくと、夥しい血が流れ始め、羊は痙攣したようになるけれど、直ぐには絶命しない。
友人の中学生になる長女は、先ほどこの羊と遊んでいた幼い子供たちの肩に軽く手を置いて、一緒に羊の方を見るよう促す。一人は痙攣する羊を見てちょっと嫌な顔をしたものの、長女が静かに「見て生死を争っているのよ」と言うと、頷いて目を背けずに、羊の首が落とされ完全に絶命するまで、それを見守っていた。
この長女はとてもお茶目な娘で、人の好い優しいお父さんをからかって、キャッキャッと笑ったりすることがあるけれど、この時ばかりは最後まで緊張した真剣な表情を崩さなかった。
羊の次に牛が屠られる番になると、大きな牛を押さえるために私も手を貸したが、牛は首を落とされた後も足を痙攣させ、その強い生命力を見せつける。私はこれを見て驚きながら、死の凄まじさに厳粛な思いがした。

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野良犬の運命は如何に?

2週間ほど前、エルドアン大統領が「危険な野良犬」への対応について声明を発表していた。

トルコでは、行政の野良犬への対応を巡って、「殺処分」か「保護」かと議論が紛糾していたため、大統領が方針を明らかにしなければならなくなったらしい。

声明によれば、殺処分は行わず、避妊処置などで野良犬の増加を防ぐと共に、保護施設の充実を図るという。

野良犬に関して大統領が声明を発表するのは、何だか大袈裟であるように思えるけれど、動物を愛するトルコの人たちにとって、これは非常に重大な問題だったのかもしれない。

しかし、2021年の12月、ジャーナリストのナゲハン・アルチュ氏(女性)がハベル・テュルク紙のコラムに記したところによると、以前から、増えすぎた野良犬を殺処分していた地方行政府は少なくなかったそうである。

果たして、今後の展開はどうなるのだろう?

私がトルコに滞在していた頃から、大人しい街角の野良犬はともかく、郊外で野犬化した犬たちは、確かに剣呑な雰囲気を漂わせていた。

2014年、イエニドアンの我が家からほど遠くない所にある工場へ、しばらく通訳業務で通っていたが、送迎バスは幹線道路の混雑を避けて、荒涼とした野原の中の砂利道を行くこともあった。その途中に、大きな野犬が群れを成していたのである。

当時、私は暇があれば運動を兼ねて付近の野原を散策していたので、バスの窓から野犬たちを眺めながら、『こっちの方へ来なくて良かった』とホッと胸をなでおろした。

その4か月ぐらい後、タシュデレンからポロネーズ・キョイ(ポーランド村)まで歩いた時は、森の中の道で4匹の野犬に囲まれたりしたけれど、これは中型犬ぐらいの大きさで可愛らしかった。数キロの間、一緒に歩いたため、情が移って別れが名残惜しかったくらいである。

そもそも、トルコで山道を歩くのなら、野犬はともかく、牧羊犬に注意しなければならない。羊の群れを率いた牧羊犬は、羊を守るために襲い掛かってくることがあるからだ。

そういう牧羊犬に出くわした場合、近づいても遠ざかってもならず、飼い主が現れるまで、そこでじっとしているように教えられたが、これはとても役に立ったと思う。

イエニドアンに近い山の麓を散策中、羊の群れと牧羊犬が現れたため、立ち止まって辺りを窺うと、飼い主のおじさんの姿も見えた。大きな声で呼びかけ、先へ進んでも良いか訊いたところ、「大丈夫だ!」と言うので歩き始めたら、犬が猛然と走り寄って来て低いうなり声をあげる。私はまた立ち止まり、動かずにじっとしていた。

おじさんも足早に近づいて犬を押さえてくれたけれど、その際に、「お前は良く解っているね」なんて言いながらニヤッと笑ったのである。解っていなかったらどうなっていたのだろうか?

この牧羊犬は、ボーダーコリーに似た犬で、それほど大きくなかったが、トルコにはカンガルという非常に大きな牧羊犬もいる。

94年の夏にカイセリへ旅行して、バスでエルジエス山の中腹まで行き、帰りはタクシーをつかまえようと、道端に立っていたところ、そのカンガルらしき犬が、6~8歳ぐらいの幼い姉弟に連れられて前を通り過ぎて行く。犬は棘の付いた物々しい首輪をつけていたが、子供たちの横を歩く姿はとても大人しそうな感じだった。

犬と子供たちが通り過ぎると直ぐにタクシーが来たので、それに乗り込み、犬がカンガルであることを運転手さんに確認してから、「でも、あんな小さな子供が連れて歩いているくらいだから大人しい犬なんだろうね?」と訊いてみた。

これに対して運転手さんは、「あれは飼い主の子供だから大人しくしているんだ」と言い、「どんなに恐ろしい犬か見せてやるから、そっちの窓をしっかり閉めてくれ」と私に命じた。

言われた通りに窓を閉めたら、運転手さんは、犬と子供たちを追い越す際、車を少しだけ犬の方へ寄せた。すると、犬は突然牙をむき出して車に襲い掛かって来たのである。

トルコの田舎道で、何度か道端に転がっている大型犬の死骸を見たけれど、あれは果敢に車へ挑んだものの、敢え無く敗退してしまった勇ましい犬の変わり果てた姿だったのだろう。

 

「農協さん」~「バブル」~「おもてなし」の時代

「富士山に黒幕」が話題になっている。

インバウンドの観光客らが、コンビニの後ろにそびえ立つ富士山を写真に収めようとして集まり、多少の問題が生じたため、富士山を黒幕で隠してしまったという。

私は、この「富士山に黒幕」で、91年の夏、イズミルトルコ語学校でドイツ人の女性から聞いた話を思い出した。

彼女の出身地であるドイツの地方都市には、名所となっている古い建築物があり、辺りは遺跡保護のため車両の進入が禁じられているものの、日本の団体観光客を乗せたバスだけは例外として許され、名所の前でバスを降りた日本の人たちは、様々な角度から写真を撮ると、またバスに乗って慌ただしく去って行くそうだ。

彼女は、これを「日本人の印象」として、ジェスチャーを交えながら楽しそうに語っていたけれど、住民の中には不愉快に感じていた人もいたのではないだろうか?

当時は、バブルの絶頂期で、日本人観光客はたくさんの金を落として行くこともあって、世界の至る所で持て囃されていたようである。

その10年ぐらい前には、「ノーキョー(農協)さん」の団体観光客が世界で有名になっていたのではないかと思う。

実態はどうだったのか解らないが、日本の国内では、「何も知らない農協さんが粗野な振る舞いにより行く先々で顰蹙を買っている」と識者や事情通が眉をひそめて語っていたりした。

それが今や、「外国人観光客の振る舞いが良くない」と日本中で眉をひそめて語り合うようになっている。10年~20年ぐらいの単位で時代はどんどん変わって行くということなのかもしれない。

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盛者必衰の理

中国を訪問したフィダン外相がBRICSへの加盟を望んでいるかのように話したため、トルコの世論は加盟の是非を巡る議論で盛り上がっているらしい。

ひと頃は、トルコのEU加盟がエキサイティングな話題となっていたのに、何だか隔世の感があるように思われる。

私もあの「ゲズィ公園騒動」が起きるまでは、いよいよ加盟が実現するのではないかと夢見ていた。

今から思えば愚かなことである。トルコは加盟と引き換えに多くのものを失っていたかもしれない。

そもそも、何故、私はトルコのEU加盟に舞い上がっていたのだろう? おそらく、知らず知らずに世界を西欧中心で見ていた所為ではないかと思う。

とはいえ、実際に、世界はこの300年ぐらいの間、西欧を中心に回って来たのだから、私のボンヤリした頭が世界をそう見ていたとしても無理はなさそうである。

西欧は圧倒的な力で世界をリードして来た。しかし、その圧倒的な力を手に入れるきっかけとなったのは、植民地の獲得ではなかったのか?

西欧は植民地から収奪した富により産業を興し、世界の中心に君臨するに至った、と大雑把に言ってもそれほど間違ってはいないような気がする。

そのため、西欧を中心にした繁栄の歴史は、収奪された側から見れば、まさしく暗黒の歴史だった。そんな酷い歴史が未来永劫にわたって続いたら堪らない。

歴史は栄枯盛衰の繰り返しであり、「驕れるもの久しからず」となるのが、当然の成り行きである。少なくともグローバルサウスの人たちが、そのように見ていても不思議ではない。

BRICS、そして中国、ロシアが期待されているのは、中国もロシアもグローバルサウスと呼ばれる地域で過去に植民地収奪を行っていないからだろう。

今、中国が投資によって経済的な支配を目論んでいると言っても、それは西欧による植民地収奪と今も続く搾取に比べれば遥かにましであると見られているようだ。

西欧の尻馬に乗っかった日本の繁栄など、西欧から見たら僅かなものだったかもしれないが、それさえも「春の夜の夢」とならぬように祈りたい気持ちである。

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