《2003年4月7日付けの記事を修正加筆して再録》
2003年の1月、私は3年半に亘って働いた邦人企業のトルコ現地生産工場を辞めて、アダパザル県のクズルック村に別れを告げることになった。
この期間、社内での立場もあり、トルコ人の同僚から自宅へ招待されても殆どそれに応じて来なかったが、退社を3日後にひかえ、ライン長として働く青年のところへ呼ばれてみることにした。
この青年はグルジア人で、グルジアとの国境に近いアルトゥビン出身のお父さんはグルジア語も解ると聞いていたので、前々から少し興味があったのである。
青年の家は隣村に在り、両親と3人暮らし、他の兄弟はブルサ市で働いているそうだ。
夕食の席には隣家に住んでいるという工場の同僚も加わった。彼はアナトリア東部のエルズルム出身である。
食卓には、ちょっとめずらしい揚げパンのようなものが供されていた。
お父さんは、「こういうパンは、我々に特有なものなんですよ。トルコでは地方ごとに変わった食べ物があります」と明らかにし、エルズルム出身の同僚を指しながら、「たとえば、彼の故郷に行くと、また違うはずです」と言い添えた。
食事が終わり、お茶の時間になると、お父さんはトルコの国情について語り始めた。
「トルコには色々な民族がいます。我々はグルジア人だし、この辺だけでも、ラズ人、アブハズ人、クルド人等々、本当に様々です。でも、全てムスリムで、皆トルコ人。民族の間で差別なんてありませんよ」
私も同感の意を表して、「そうですね。『トルコ人』というから、普通のトルコ人かと思っていると、知り合って3ヶ月ぐらいして、その人がクルド語で話しているのを聞いて驚いたこともあります」と自分の見聞を例にあげた。
すると、エルズルム出身の同僚がニヤニヤしながら、「マコト、君はクルド語も少しは解るのか? 何か言ってみなよ」と言うので、唯一知っている挨拶の言葉で「チュワニバシィ」とやってみた。
彼は「バシィ! ナンタラ~ホンタラ~」とクルド語でまくし立ててから、「おい、3ヶ月どころじゃなくて、君は3年もの間、俺がクルド人だって知らなかったろう。ハッハッハッ」と笑った。
それから、お父さんはこんな話も語ってくれた。
「クズルックから、もっと奥へ入った村に行くと、あの辺にはエシェックチ(ロバを使って荷物等を運んだりする人)と言われている連中もいます。なんでそう言われているのかは知りませんがね。この辺じゃ昔から彼らのことをエシェックチと呼んでいるんです。彼らは元々この地域に住んでいて、我々のようなトルコ人とはちょっと違います。なんでも『本当のトルコ人』とか言っているトルコ人です」
トルコ語でロバというのは、明らかに侮辱用語である。山内昌之氏の「民族と国家」によれば、オスマン帝国の時代、帝国のエリートは自分達をオスマン人と意識していて、「トルコ人」と言った場合、それはアナトリアの農民や遊牧民のことを指し、多少侮蔑的な響きがあったらしい。
2002年、AKP政権が成立して国会議長に選ばれたビュレント・アルンチ氏のルーツはアナトリアの遊牧民であると報道されたら、クズルック村工場のトルコ人同僚は、「それじゃあ正真正銘のトルコ人だ」と蔑むように笑っていた。
アルンチ氏はちょっと色黒でアジア系のモンゴロイドというよりインド辺りの人を思わせる風貌だが、同僚のエンジニアは、とても色白だった。
彼は、観光地として有名なサフランボル近くの村の出身で、バルカン半島から移住してきたという村の住人たちも皆色白であるらしい。
どうやら、ルーツがモンゴロイドであるよりは、コーカソイドの白人である方が誇らしい気分になれたようである。
さて、グルジア人の家庭で夕食を御馳走になってから10日ほど後のことである。
クズルック村を離れてイスタンブールに居た私は、イスタンブールのトゥズラ工場で働いている元同僚を訪ねた。
彼はクズルック村の出身であり、同郷の女性と結婚して、今はトゥズラの近くに所帯を持っている。
私がトゥズラ工場に勤務していた頃は、私と会社の寮で寝泊りして、週末は共にクズルック村へ帰った。
とんでもない酒豪(だったと言うべきか。彼も結婚して以来余り飲まなくなった)で、およそ敬虔なムスリムと言えない彼は、イスラム的民族主義政党MHPの熱烈な支持者であり、よく自分達のルーツは中央アジアであると誇っていた。
ところが、今回、夕食を御馳走になってから雑談していると、「俺たちはラズ人なんでへそ曲がりなんだ」というような話をする。
「あれっ、中央アジアのトルコ人じゃなかったのかい?」と突っ込みを入れてやると、「ラズ人も元々は中央アジアのトルコ人だったのだ」とかわしてから、「ちょっと待て。ラズ人の風俗を紹介した雑誌の特集記事があったから、お前に見せてやろう」と言って部屋を出て行くと、暫くして「ナショナル・ジオグラフィック」のトルコ語版を片手に現れ、「ほらっ、この写真の民族衣装を見てみなよ。うちのお祖母さんもこれと全く同じ格好をしていたよ」と言う。
雑誌を手にとって良く見ると、写真の下に「民族衣装をまとったチェプニ人の女性」とある。
それで、トゥズラ工場で働くチェプニ人女性の話を持ち出して、「チェプニ人もラズ人なのかな? ギリシャ語を話していたって聞いたけど」と訊くと、
「誰が言ってた? セルダか? ああ確かに彼女もチェプニ人だよ。しかし、ギリシャ語話していたなんて、勝手にそう思っているだけなんじゃないのか? チェプニ人もラズ人の一派のはずなんだがな」
「ふーん、それでこの雑誌には『ラズ人も中央アジアからやって来た』なんてことが書かれているわけ?」
「いや、残念ながらグルジアかギリシャから来たようなことが書かれている」
こう言ってから、「ハッハッハッ」と笑った。
さらに、「ところで、君の奥さんは何なの? やっぱりラズ人?」と訊いてみると、「お前、エシェックチって知らないか?」
「知っている。その話はつい先日聞いたばかりだよ。本当のトルコ人ってやつだろ」
「そうそう、それ。俺の女房はそのエシェックチなんだよ。ラズ人とか、アブハズ人とか言ってる俺たちのようなトルコ人とは違って正真正銘のトルコ人だぜ。ハッハッハッ」
「でも、昔はギリシャ人だったのが、イスラムに改宗してトルコ人になっただけかも知れないよ」
「いや、あれのルーツは中央アジアだよ。だって、女房の目を見てみなよ。君たちみたいにちょっと吊り上っているだろう」
彼はこう言ってまた笑っていたが、確かに彼女の風貌はちょっと東洋的と言えるかも知れない。
しかし、これでトルコ人の持つ民族意識というものが、ますます解らなくなってしまった。とにかく、お互いの民族的ルーツを余り気にしていないのは確かだと思う。
20年の長きに亘ったクルド反政府ゲリラの活動により、トルコ、特にアナトリアの南東部はすっかり疲弊し、クルド人とそうではない「トルコ人」との間に摩擦も生じるようになった。
それでも、決定的な亀裂が生じてしまったとは思えない。イスタンブールなどでは、相互の婚姻も相変わらずだ。これは、ちょっと奇跡的なことではないかと思ったりもする。
一般市民が反政府ゲリラのクルド人とその他のクルド人を別けて考えることが出来ているのだろう。
それに、お互いに別の民族であるというより、同じムスリムであるという意識の方が強いのかもしれない。
各民族の文化、言語をどこまで維持、もしくは発展させて行くのか、これはとても難しい問題だ。
しかし、トルコ共和国がトルコ語を唯一の公用語と定めて、国民が等しくトルコ語で教育を受け、何処でもトルコ語が通じる社会を目指したのは、近代的な国家を作るうえで必要なことではなかったかと思う。
日本でも近代化の過程で多くの言語(方言)が失われたのである。