メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

トルコ人とは、いったい何者なのか?

先日、タハ・アクヨル氏のコラム(3月2日付けのヒュリエト紙)に興味深い話が紹介されていた。
1932年、アタテュルクは、アナトリアで6万4千に及ぶ頭蓋骨を計測調査するよう指示した。当時、ヨーロッパでは、トルコ人や全てのアジア系人種をモンゴロイドとして侮蔑する風潮が蔓延していたが、この調査の結果、アナトリアトルコ人は、ヨーロッパ人のように短頭のアルプス人種であることが証明されたそうだ。
多くのトルコ人が、この結果に満足したようだけれど、モンゴロイドであるのは、そんなに恥ずかしいことなのか? しかし、一方で、彼らはトルコ人のルーツが中央アジアにあると主張して来たのだから、その心情はなかなか複雑だったかもしれない。
トルコ人は、中央アジアからやって来て、僅かな兵力で広大なビザンチン帝国を打つ負かし、オスマン帝国を築いた。我々トルコ人はその子孫である」と誇っているものの、科学的に考えたら、そんな僅かな兵力しかなかった“トルコ人”が、千年ぐらいの間にこんな増えるはずがなく、実のところ、現在のトルコ人には、その勇猛な“トルコ人”に僅かな兵力で征服されてしまった弱々しいビザンチン人の子孫が多く含まれているらしい。
トルコ人は、ヨーロッパ人と同じアルプス人種」という調査結果は、図らずもこれを立証しているような気もする。実際、トルコ人の多くは、ヨーロッパ風な顔立ちだから、オスマン帝国の末期に始まった西欧化により、服装などを改めただけで、ヨーロッパ人と見分けがつかなくなった。
私ら日本人に、こんな芸当は無理だ。明治になって、いくら鹿鳴館で西欧風に着飾ってみても、モンゴロイドの顔はどうすることもできなかった。でも、そのお陰で中身の近代化に邁進できたのではないか。なまじ西洋人の顔をしていたら、鹿鳴館に満足して終わっていたかもしれない。我々はモンゴロイドで本当に良かった。
さて、トルコの人たちが、“民族”を意識し始めたのは、オスマン帝国の末期になってからだと言われている。その頃には、領内のギリシャ人やスラブ人といったキリスト教徒の民族が、それぞれの国民国家を樹立して、帝国から離れて行く。
その過程でアナトリアに残されたイスラム教徒らにも民族主義が芽生え、“トルコ民族主義”を唱えたズィヤ・ギョカルプは、「トルコ人化,イスラム化,近代化」をスローガンに掲げた・・・(という歴史のプロセスに興味がある方は以下の本を読んでみて下さい)  

  ズィヤ・ギョカルプ自身はクルド人だったようだが、“トルコ民族主義”を掲げながら、「トルコ人化,イスラム化,近代化」と言って、“トルコ人化”しなければならない人たちの存在を最初から認めていたのは、なかなか凄い話だと思った。 
そして今、この“トルコ人化”を拒否したクルドの人たちが、クルド民族の存在を憲法にも明記するよう運動している。
その為、“トルコ人”という概念を“アメリカ人”のようなエスニック的な民族性がない“上部アイデンティティー”として認め、人々はそれと同時に、自分のエスニック的な民族性を“下部アイデンティティー”にすれば良いのではないかと主張する知識人もいる。
この場合、クルド人は、エスニック的には“クルド民族”だが、トルコ共和国の国民として“トルコ人”という“上部アイデンティティー”を持つ。
しかし、多くの西洋人顔した“トルコ人”はどうなってしまうのだろう? エスニック的には、モンゴロイド風のトルクメン人やカザフ人と同じ民族であり、“上部アイデンティティー”が“トルコ人”ということになるのか?
さもなければ、“上部アイデンティティー”は“トルコ人”に違いないけれど、“下部アイデンティティー”は何だか良く解らないという人がたくさん出てきてしまいそうな気がする。
だから、“アナトリアトルコ人”というエスニック的なアイデンティティーも認めないわけには行かないと思う。それが、いつどのように形成されたのかは追及しないことにして・・・。
本人が“トルコ人”と意識していればトルコ人であるし、“クルド人”と意識していればクルド人になる。それでも、この国の人たちは、持ち前のバランス感覚で何とか折り合いを付けながら巧くやって行くのではないか・・・。“上部アイデンティティー”とか “下部アイデンティティー”など論じる必要はないかもしれない。 

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