メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

トルコ人とクルド人

米国におけるアングロサクソンの割合はどのくらいになるのか、ネットで少し検索してみたら、「建国時に約60%、現在は11%」といった記述が見つかった。現在、最も多いのはドイツ系で17%になるそうだ。
しかし、建国時はともかく、今やアメリカの社会も相当混ざり合ってしまっているはずだから、こういった数値がどれほど信頼できるものなのか、ちょっと疑問を感じてしまう。
トルコ共和国では、エスニック・ルーツによる民族の割合など、多分、それほど綿密な調査も実施されていないようだし、調べたところで、ルーツを正確に遡れる人たちは、それほどいないような気もする。
その多くは、トルコ民族主義の思想に基づいて「中央アジアから来たトルコ人」と答えるだけだろう。
いくらか根拠のあるルーツを明らかに出来るのは、トルコ語とは異なる母語を近年まで(あるいは現在まで)維持してきた“クルド人”“アラブ人”“ラズ人”“チェルケズ人”“アルバニア人”といった人たちであるかもしれない。
しかし、例えばシリアには、ルーツを辿ればコーカサス系だが、今はアラビア語母語にしている人たちも少なからずいるという。トルコ語学校で同じ教室にいたシリア人留学生がそうだった。
トルコの南東部では、オスマン帝国末の混乱期にイスラムへの改宗を余儀なくされたアルメニア人が、ムスリムクルド人となった例もあるらしい。
クルド系部族の中には、カラウルスといったトルコ語の部族名もあり、本来はトルコ(テュルクメン)系の部族だったのが、次第にクルド化したのではないかとも言われている。
トルコ系部族のアナトリア進出が本格的になったのは、1071年の“マラズギルトの戦い”以降とされているけれど、それでも既に1000年が経過している。
その間、オスマン帝国の領土拡張に伴い、バルカン半島や中東からも様々な言語や文化を持つ集団がやって来て、各々が長年にわたって混交を重ねたため、もう一つ一つの要素を検証するのは無理じゃないだろうか。
いずれにせよ、オスマン帝国の建国当初から隆盛期に至るまで、現在のトルコ共和国の領域において、トルコ系のエスニック・ルーツを有する人の割合が、60%という高率に達したことはなかったように思える。
そうであれば、トルコ人の様々な容貌の割合が、現在のテュルクメニスタンやウズベキスタンの人々のそれにもう少し近くなっていても良かっただろう。
とはいえ、清朝における満州族のように、全人口の1%というほどではなかったはずだ。セルジューク朝の時代を経て、相当数のトルコ系部族がアナトリアへ進出していたらしい。
なにより、オスマン帝国は、トルコ語を土台にしたオスマン語を公用語として使いながら、民衆へオスマン語を強要したことはなかったと言われているにも拘わらず、トルコ語の話者はかなり広範囲に増えていったようである。末期には、皇帝さえ満州語を話せなくなっていたという清朝とは全く違う。
しかし、オスマン帝国を興したトルコ族が、自分たちより遥かに高度な文明と多大な人口を有していたアナトリア西部とバルカン半島に跨る地域を征服した点は、満州族清朝と相通じるところがあるのではないか。
また、セルジューク朝からオスマン帝国にかけて、クルド部族の立場は、清朝の八旗蒙古に何だか良く似ているような気もする。
セルジューク朝に始まったトルコ部族による征服事業の当初では、最大の協力者だったはずなのに、気がついたらオスマンビザンチン帝国の後継者に収まってしまい、クルド部族は辺境に取り残されていた。
南東部に、クルド化したトルコ系の部族もいるというのは、これまた清朝の辺境に残った満州八旗のようで興味深い。
中華の漢人に対する満州族モンゴル族のように、ビザンチンの人々から見れば、トルコ部族もクルド部族も粗野な騎馬民族であり、殆ど変わりがなかったかもしれない。
現在、トルコ人の歴史的な騎馬槍競技とされるジリットや吟遊詩人の伝統が残っているのは、どういうわけか、トルコ人クルド人が混在し、部族社会の残滓も見られるシヴァス県やエルズルム県といった東部地域ばかりである。
まとまりのない話で申し訳ないが、トルコに限らず、この地域は、イランの最高指導者であるハメネイ師がアゼルバイジャン系でトルコ語も話すなど、言語や文化が非常に錯綜している。日本や西欧の感覚で、トルコ人とかクルド人とか考えようとしても、良く解らなくなってしまうと思う。 

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