メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

「強力な安定した国家により平和を築くのか、分裂して争い列強の喰い物にされるのか?」

93年頃だったか、イスタンブールで出会った日本人旅行者が「国の規模」について論じていた。

明確に覚えていないが、「端から端まで1日あれば車で移動できるくらいの規模が良い」という説ではなかったかと思う。

論じた人によれば、トルコも適切な規模より大きかったようだ。その後も何度かこれに類する説を読んだり聞いたりしたが、「民族自決」と同様、それは旧帝国を分割・解体するための理論であったのかもしれない。

そのうえ、「民族自決」とは異なり、国の規模を問題にしているので、例えば、漢民族の領域をさらに分割するためには、とても都合が良い説だったように思われる。

中国に関しては、「国が大き過ぎるから巧く行かない」とか「小さい国に別れたら、もっと早く発展する」といった声が日本でも良く聞かれた。

迂闊なことに、私も長い間、これをもっともな説だと考えていたのである。

しかし、2020年10月に亡くなったトルコ国民のアルメニア人で与党AKPの議員だったマルカル・エサヤン氏は、トルコの発展と平和を望みながら、次のように語っていた。

「この地域は、強力な安定した国家が平和を築くか、あるいは弱小の各勢力に分裂して争い、列強の喰い物にされるかの何れかしかなく、中程度の国家が併存するという状態には成り得ない」

おそらく、これは中国にも当てはまりそうである。中国はトルコに比して遥かに巨大だが、その歴史を振り返ってみれば、王朝が崩壊する度に、各勢力の間で争いが起こったり、異民族の侵略にさらされたりした。

そのため、歴代の王朝は、分裂を許さない強力な統治により、地域の平和を維持するように努めたのではないだろうか。現在でも、中国の安定は、東洋の平和に欠かせない要件であると思う。

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天安門事件とカラー革命

35年前、1989年の6月4日、中国で「天安門事件」が勃発した。この事件で、私は中国に非常な失望を感じた。子供の頃から、中国には憧れを懐いていたので、その分、失望も大きかったのではないかと思う。

おそらく、中国でも多くの人たちが祖国に対して失望、あるいは絶望したのだろう。当時、日本で学んでいた中国人留学生の中には、事件を機に日本への残留を決めた人も少なくなかったそうだ。

2011年に、トルコで知り合った中国人のKさんも、そういった留学生の一人だった。

2011年当時、Kさんは日本で食材を輸入する事業に携わっていて、トルコの食材も輸入していたという。ところが、日本の同業者の多くは、同じ食材の輸入を中国に依存していたため、その同業者のグループを率いてトルコへ来たのである。

Kさんは、事前にメールでトルコ語の通訳を私に依頼していた。当日、イスタンブールの宿泊先のホテルを訪れ、ロビーで待機していると、Kさんがやって来て、挨拶もそこそこに名刺を手渡されたので、通訳を依頼してくれた方であることが解った。

直ぐに本題に入り、トルコ出張の目的を語り始めたKさんによると、食材の輸入を中国に依存するのは非常に危険であり、そのためにトルコからの輸入量を増やさなければならないと言うのである。

実のところ、私はメールをやり取りして以来、Kさんの姓名を漢字の訓読みにして、日本人であるとばかり思っていたから、微妙に訛りのあるKさんの口調に『随分、まどろっこしい話し方をする人だな』と少し呆れていた。

その時である。同業者グループの一人が近づいてきて、「Kさん!」と漢字の音読みで呼びかけた。これで、ようやく中国の人であることが解った。そして、Kさんが力説していた「中国の危険性」に何だか奇妙なものを感じた。

Kさんは、もともと文学を学ぶために夫人と共に日本へ留学してきたそうである。それが、天安門事件による失望感から日本への残留を決意し、生活のために食材の輸入業に転じたらしい。

「日本の国籍は取らないのですか?」と訊いたところ、娘さんたちが日本国籍を取得したら、それに倣うかもしれないが、まだ「中国人」でいる方が楽であるという。

「私が日本人だったら、とても変な日本人だと思われてしまいますよ。でも、中国人なら仕方がないと許してくれるでしょ。」とKさんは言って、豪快に笑った。

確かに、Kさんは、日本人とトルコ人の業者が質疑応答を交わしている際にも、何か気がつくと割り込んで自分の意見を表明したり、既知のトルコ人業者と英語で話し始めたり、かなり日本人らしからぬ所が目立っていた。

しかし、私はそんなKさんにとても好ましいものを感じていた。豪快な笑いも気持ち良かった。韓国やトルコの友人たちに近いと思ったのである。

あれから13年が過ぎた。Kさんはどうしているだろう? 日本の国籍は取ったのだろうか?

この13年の間にも、中国は経済と科学技術の面で目覚ましい発展を続けた。豊かさは人々の意識にも変化をもたらしたはずだ。

おそらく「食の安全」に対する意識も高まっているに違いない。「中国の食材は危険」というのも既に過去の話だろう。しかし、中国の食材は、今やそれほど安価ではなくなっているかもしれない。

13年を経て、私の意識にも相当な変化があった。

イスタンブールで、2013年6月の「ゲズィ公園騒動」から2016年7月の「クーデター事件」に至る「トルコの激動の日々」を目の当たりにして、私の中の常識が次々と覆されていったように感じた。

米国を中心とする国際秩序への疑念が深まり、民主主義に対する信頼も揺らいだ。

911」の衝撃が、現実として意識され明確になったのではないかと思う。

「ゲズィ公園騒動は米国が仕掛けたカラー革命の始まりだった」というトルコの識者の主張にも「陰謀論」めいたものは感じられなくなった。

それどころか、1989年の「天安門事件」にもカラー革命的な要素があったのではないかと考えるようになった。天安門事件はまさしくカラー革命の先駆けであったのかもしれない。

今、Kさんにこれを話したら、果たして何と答えるだろうか? 

実を言うと、私はKさんが日本国籍を取得していないことを願っている。それよりも、祖国の中国で活躍している姿を想像してみたい。

心配しなくても、そうなっているような気がするけれど・・・。

「ゲズィ公園騒動」の取材に同行して解ったこと

2013年の6月1日、イスタンブールで「ゲズィ公園騒動」が始まった。

ゲズィ公園を取り壊してショッピングモール等の施設を建設する政府の計画に反対した人々が、デモ行進の末に公園を占拠して立て籠った事件である。事件は日本でも大きく報道されて、かなり注目を集めていた。

イスタンブールでは、世界各国のメディアが早い段階から特派員を送り込んで取材活動を繰り広げている。当時、2003年から10年近くイスタンブールに居住していた私も、あれほど多くの報道陣を見たのは初めてだったと思う。

もちろん、日本の主だったメディアも皆イスタンブールに来ていた。お陰で私にもアテンド・通訳の仕事が回ってきたくらいである。通常、メディアの取材の通訳などは特定の人たちに任されていたようだけれど、「ゲズィ公園騒動」の取材には人が足りなくなっていたらしい。

アンカラでは、エルドアン首相(当時)が、政権支持者らに呼び掛けて、デモに反対する集会を開催したので、それを取材する記者の方たちと共に私もアンカラへ向かい、これが仕事始めになった。

しかし、集会の中へ入ってしまうと、全体の規模や様子が掴めなくなってしまうため、続いてイスタンブールで開催された集会は、現地で取材せず、イスタンブールのホテルで、トルコの報道番組を見ながら、集会の状況を把握するように変更された。

政府寄りの報道番組には、イエニカプの広場に集まった群衆が映し出され、その数100万人と伝えられた。記者の方は、AP通信が「2~3万人」と報じていることを明らかにして、「100万人」を一笑に付したけれど、いくらなんでも「2~3万人」は少なすぎるように思われた。

私には、甲子園球場を埋め尽くした群衆より遥かに多くの人が集まっているように見えたのである。記者の方によると、甲子園球場は「4~5万人」入るらしい。それでもAP通信の「2~3万人」を否定しようとはしなかった。

「AP通信」に納得できなかった私は、その場でアナトリア通信の元チーフカメラマンだった友人に電話して訊いてみたところ、次のように答えてくれた。

「私も今、同じ番組を観ているが、100万人は大嘘。あのイエニカプの会場の収容人員は50万人だよ。しかも、今見ていると後ろの方が少し空いている。私は45万人ぐらいだと思う」。

しかし、「甲子園球場の群衆よりも少ない」と見ていた記者の方が、この話に納得するはずもなかったのである。

結局、私が記者の方たちと1週間ほど同行して解ったのは、「書く記事の内容は最初から決められており、現地取材は、記事の内容に合う発言や映像を揃える目的で行う」ということだった。

そのため、発言した人の氏名も訊き出そうとしていたけれど、例えば「メフメット・オズテュルクさん」だったら、同姓同名の人がいくらでもいたに違いない。また、身分証明書でも確認しない限り、「自称」が何処まで本当なのか解ったものではない。私は氏名公表に何の意味があるのかさっぱり解らなかった。

もちろん、11年を経て、私がこんな所で御託を並べているのは、それこそ全くの無意味だろう。11年前、記者の方たちは、ある仕事のためにトルコを訪れ、その仕事を無事に果たして日本へ帰ったのである。

多分、遠からずエルドアン政権は倒れることになっていたので、それを見通す記事が書ければ、それで良かったのではないか?

ところが、その3年後の「クーデター事件」でもエルドアン政権は倒れなかった。未だに倒れていない。

「倒れることになっていた」のは、おそらく米国が望んでいたからだろう。それはバイデン大統領が「クーデターで倒せなかったエルドアンを選挙で倒すためにトルコの野党を支援する」と述べたところにも現れていた。

「ゲズィ公園騒動は、米国が仕掛けたカラー革命の始まりだった」というトルコの識者らの主張には、それなりの根拠があったと思う。

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ターキッシュ・ドリームの具現者もヘリコプターで墜落!

YouTubeで、ライシ大統領のヘリコプター墜落事故に関するトルコの報道を検索していたら、以下のような動画が出て来た。

90年代に国務大臣を務めたジャヴィット・チャーラル氏が、キャスターのインタビューに答えたハベルテュルク放送の番組である。

チャーラル氏は、1989年の5月、所有していた同じヘリコプターで墜落事故に見舞われたそうで、まずはその事故の経過から語り始めている。

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この番組は、チャーラル氏に、政治経済の情勢やチャーラル氏自身の活動を問う1時間半のロングインタビューで構成されているけれど、収録の数日前にライシ大統領の事故が起きていたので、その話題から入ったようである。

時間があれば、1時間半にわたる本編を見たいところだが、とてもそんな余裕はない。

また、チャーラル氏のトルコ語は非常に聴き取り難く、冒頭の部分をカットした上記の動画でも、所々聴き取れない部分があった。本編を全て視聴するのは大変だろう。

しかし、少しずつ重要な場面だけでも視聴してみたいと思う。チャーラル氏は、90年代に私がとても興味を懐いた政治家の1人だからである。

何と言っても、高卒で繊維業の店員から身を起こし、実業家として成功した後に政界入りしたという経歴が異色だった。「ターキッシュ・ドリーム」の具現者であるかのように見えたのだ。

チャーラル氏は90年代に政界を退いた後も、所有していた銀行が破綻したうえ、銀行不正の罪に問われて服役したりと波乱万丈の人生を続けている。

私は2017年までトルコに滞在していた。滞在中は、復活したチャーラル氏の活躍をニュースで見たりしていたけれど、2017年に帰国して以来、チャーラル氏の動向は全く追えていなかった。

そのため、動画で久しぶりにチャーラル氏の姿を見て何だか感慨深く思えた。79歳というのに実に若々しい。

1989年の5月、当時、国会議員だったチャーラル氏は、所有していたヘリコプターに搭乗し、イスタンブールからアンカラへ向かっていたところ、悪天候により、低空を飛んでいたヘリコプターが高圧電線に接触、国道脇の森の中に墜落してしまったそうである。

しかし、5月の新緑で生き生きとしていた樹木が緩衝の役割りを果たしてくれたお陰で、搭乗者4人は無事にヘリコプターから脱出したという。

この墜落劇には、当時、携帯電話などがなかったため、チャーラル氏ら4人は、国道に出てミニバスを止め、最寄りの病院まで連れて行ってもらったという落ちがついている。

国道の脇で、バスを止めようと手を振るチャーラル氏らの様子を想像すると、何だか微笑ましい感じがする。チャーラル氏も楽しそうに事故の顛末を語っていた。

 

トルコとイランの相違/イランと韓国は似ている?

イランのライシ大統領がヘリコプターの事故により死亡した事件は、トルコでも大きな話題となっている。

いくつかYouTubeの動画からトルコの報道を視聴してみたが、その中でAKPの議員であるメフメット・シャーヒン氏は次のように語っていた。

「おそらくイランの体制は、何が起こったのか解っている。しかし、今後も私たちがそれを知ることはないだろう。体制が事件について何か発表したとしても、それは体制を守るためのものだ。・・・」

どうやら、事件の真相は多くの謎と共に闇の中へ葬り去られるのではないかと言うのである。

シャーヒン氏も、イランの体制が、女性や若年層の反発で困難な状況に陥っていると述べていたけれど、同様に、「イラン・イスラム体制の限界」を指摘する声は、左派・右派を問わずに出ているようだ。

最高指導者の地位を子息に継がせようとしているハメネイ師とライシ大統領との間に見られた確執も取り沙汰されているが、果たして、今後どのような展開が待ち受けているのだろう?

一方、私は今回の事件で浮き彫りにされた「トルコとイランの相違」に驚いている。何より、ハメネイ師が世襲を企図しているという説に驚いた。トルコでは考えられないことじゃないかと思う。

もちろん、それ以前に、「ホメイニ師ハメネイ師」という宗教指導者の存在も考えられないだろう。

90年代、「トルコにもイランのようなイスラム革命が起きる」と騒がれていた頃、トルコの新聞のコラム記事で、「トルコにはオスマン帝国の時代から、イランに見られるようなウラマーイスラム神学者)の階層が存在していなかった」として、これを強く否定した論説を読んだ。

こういった歴史的な経緯については良く解らないものの、確かに、イランとトルコの間には、相当な開きがあったように思われる。

イランについては、日本語でも検索してみたが、宗教指導者の立場を明らかにさせるための激しい宗教的な理論闘争もあるという。トルコでは、形而上の問題の論争がそれほど熱気を帯びることもなかったのではないだろうか?

これには、イデオロギー闘争の激しかった韓国と日本の相違を思い起こしてしまったりする。

2003年、イスタンブールでイランの人たちが集まるプロテスタントの教会を見学したことがあるけれど、ペルシャ語のミサで熱狂的な反応を見せる様子に驚かされた。この教会では、トルコ語によるミサも営まれていたが、トルコの人たちは静かに祈りを捧げるだけだった。

韓国でも、教会のミサが熱狂的な盛り上がりを見せたりする。イランと韓国にはちょっと似ている所があるのかもしれない。これに比べると、トルコ人と日本人は何だか控えめであるような気がする。

とろ~り溶けたチーズとビビンバ?

昨日、また近所のピザハットでピザを買ってきて食べた。「持ち帰り」は半額になるから嬉しい。自転車で3分もかからない所だから、そもそも配達してもらう必要がないのである。

今回は「パン生地」にしてみたが、これもなかなか美味かった。やはり、パンの旨味も味わえた方が良いかもしれない。

しかし、時折、ピザが無性に食べたくなるのは、とろ~り溶けたチーズの所為だろう。あの旨味には堪えがたいものがある。

最近は、韓国料理にも、とろ~り溶けたチーズが使われたりしている。

「チーズビビンバ」なんて料理も登場しているけれど、ちょっと食べてみる勇気が出ない。韓国の人たちはなんと思い切ったことをするのかと驚くばかりだ。

かつてトルコで、ピスタチオを混ぜて焼いたケバブが広まり始めたら、伝統的なケバブに拘る料理人が「ピスタチオを混ぜるなんて、ケバブに対する裏切りだ!」と嘆いた話が伝えられていた。

ビビンバにチーズを載せるのも、多分、ビビンバに対する裏切りじゃないかと思う。


 

就学生制度と移民の受け入れ

クルドトルコ人も含めて移民・難民の問題を取りあげているネットの記事などに目を通すと、治安や風紀に与える影響を心配して移民・難民に拒絶反応を示す人たち、もう一方で、人道主義的な立場から保護と受け入れを主張する人たちがいて、双方の意見が全くかみ合っていないように思えた。

しかし、現実的には、日本の人手不足が自動化等でカバーしきれない深刻な状況に陥っているのは確からしい。

少子化も今後改善の見込みなどないだろう。日本の女性たちが子供をたくさん産むように仕向けることは最早不可能であり、この傾向は将来的にも変わらないと誰もが認識しているはずだ。

ならば、移民を受け入れて行くより他になさそうである。問題はその方法じゃないかと思う。

私は2017年に帰国してから、福岡の派遣会社で2年ほど働いていた。ネパールやベトナムパキスタン等から来ていた就学生らをアルバイト派遣先の某急便の配送センターへ送迎バスで連れて行くのが主な仕事だった。

就学生は、まず2年制の日本語学校で日本語を学ばなければならない。それから、大学へ進学する就学生もいたが、その多くは専門学校へ行って特定の技術を習得した後、日本の様々な企業に就職して働くことになる。

この就学生制度も色々な問題を抱えていたけれど、少なくとも就学生は2年にわたって日本語を学び、アルバイト先で日本の社会への適応も身に着けることができる。

私が働いていた派遣会社には、日本語に堪能なネパール人社員の方もいて、就学生らに日本の社会で必要とされるルールを教えていたりした。

もちろん、派遣会社は慈善事業じゃなくて、営利目的で就学生を派遣している。そのため、人道主義的な理想とは異なる現実的な厳しい対応も見せていた。

日本語学校や専門学校も同様だった。いずれも利益を計上しなければならないからだ。

これに対して、貧しい就学生を搾取しているのではないかという批判があるかもしれない。しかし、この就学生制度によって、移民の受け入れが管理されている側面を見逃してはならないだろう。

移民の受け入れに拒絶反応を見せる人たちも、こういった現場の声に耳を傾け、意見交換してみたら良いのではないかと思う。