35年前、1989年の6月4日、中国で「天安門事件」が勃発した。この事件で、私は中国に非常な失望を感じた。子供の頃から、中国には憧れを懐いていたので、その分、失望も大きかったのではないかと思う。
おそらく、中国でも多くの人たちが祖国に対して失望、あるいは絶望したのだろう。当時、日本で学んでいた中国人留学生の中には、事件を機に日本への残留を決めた人も少なくなかったそうだ。
2011年に、トルコで知り合った中国人のKさんも、そういった留学生の一人だった。
2011年当時、Kさんは日本で食材を輸入する事業に携わっていて、トルコの食材も輸入していたという。ところが、日本の同業者の多くは、同じ食材の輸入を中国に依存していたため、その同業者のグループを率いてトルコへ来たのである。
Kさんは、事前にメールでトルコ語の通訳を私に依頼していた。当日、イスタンブールの宿泊先のホテルを訪れ、ロビーで待機していると、Kさんがやって来て、挨拶もそこそこに名刺を手渡されたので、通訳を依頼してくれた方であることが解った。
直ぐに本題に入り、トルコ出張の目的を語り始めたKさんによると、食材の輸入を中国に依存するのは非常に危険であり、そのためにトルコからの輸入量を増やさなければならないと言うのである。
実のところ、私はメールをやり取りして以来、Kさんの姓名を漢字の訓読みにして、日本人であるとばかり思っていたから、微妙に訛りのあるKさんの口調に『随分、まどろっこしい話し方をする人だな』と少し呆れていた。
その時である。同業者グループの一人が近づいてきて、「Kさん!」と漢字の音読みで呼びかけた。これで、ようやく中国の人であることが解った。そして、Kさんが力説していた「中国の危険性」に何だか奇妙なものを感じた。
Kさんは、もともと文学を学ぶために夫人と共に日本へ留学してきたそうである。それが、天安門事件による失望感から日本への残留を決意し、生活のために食材の輸入業に転じたらしい。
「日本の国籍は取らないのですか?」と訊いたところ、娘さんたちが日本国籍を取得したら、それに倣うかもしれないが、まだ「中国人」でいる方が楽であるという。
「私が日本人だったら、とても変な日本人だと思われてしまいますよ。でも、中国人なら仕方がないと許してくれるでしょ。」とKさんは言って、豪快に笑った。
確かに、Kさんは、日本人とトルコ人の業者が質疑応答を交わしている際にも、何か気がつくと割り込んで自分の意見を表明したり、既知のトルコ人業者と英語で話し始めたり、かなり日本人らしからぬ所が目立っていた。
しかし、私はそんなKさんにとても好ましいものを感じていた。豪快な笑いも気持ち良かった。韓国やトルコの友人たちに近いと思ったのである。
あれから13年が過ぎた。Kさんはどうしているだろう? 日本の国籍は取ったのだろうか?
この13年の間にも、中国は経済と科学技術の面で目覚ましい発展を続けた。豊かさは人々の意識にも変化をもたらしたはずだ。
おそらく「食の安全」に対する意識も高まっているに違いない。「中国の食材は危険」というのも既に過去の話だろう。しかし、中国の食材は、今やそれほど安価ではなくなっているかもしれない。
13年を経て、私の意識にも相当な変化があった。
イスタンブールで、2013年6月の「ゲズィ公園騒動」から2016年7月の「クーデター事件」に至る「トルコの激動の日々」を目の当たりにして、私の中の常識が次々と覆されていったように感じた。
米国を中心とする国際秩序への疑念が深まり、民主主義に対する信頼も揺らいだ。
「911」の衝撃が、現実として意識され明確になったのではないかと思う。
「ゲズィ公園騒動は米国が仕掛けたカラー革命の始まりだった」というトルコの識者の主張にも「陰謀論」めいたものは感じられなくなった。
それどころか、1989年の「天安門事件」にもカラー革命的な要素があったのではないかと考えるようになった。天安門事件はまさしくカラー革命の先駆けであったのかもしれない。
今、Kさんにこれを話したら、果たして何と答えるだろうか?
実を言うと、私はKさんが日本国籍を取得していないことを願っている。それよりも、祖国の中国で活躍している姿を想像してみたい。
心配しなくても、そうなっているような気がするけれど・・・。