2013年の6月1日、イスタンブールで「ゲズィ公園騒動」が始まった。
ゲズィ公園を取り壊してショッピングモール等の施設を建設する政府の計画に反対した人々が、デモ行進の末に公園を占拠して立て籠った事件である。事件は日本でも大きく報道されて、かなり注目を集めていた。
イスタンブールでは、世界各国のメディアが早い段階から特派員を送り込んで取材活動を繰り広げている。当時、2003年から10年近くイスタンブールに居住していた私も、あれほど多くの報道陣を見たのは初めてだったと思う。
もちろん、日本の主だったメディアも皆イスタンブールに来ていた。お陰で私にもアテンド・通訳の仕事が回ってきたくらいである。通常、メディアの取材の通訳などは特定の人たちに任されていたようだけれど、「ゲズィ公園騒動」の取材には人が足りなくなっていたらしい。
アンカラでは、エルドアン首相(当時)が、政権支持者らに呼び掛けて、デモに反対する集会を開催したので、それを取材する記者の方たちと共に私もアンカラへ向かい、これが仕事始めになった。
しかし、集会の中へ入ってしまうと、全体の規模や様子が掴めなくなってしまうため、続いてイスタンブールで開催された集会は、現地で取材せず、イスタンブールのホテルで、トルコの報道番組を見ながら、集会の状況を把握するように変更された。
政府寄りの報道番組には、イエニカプの広場に集まった群衆が映し出され、その数100万人と伝えられた。記者の方は、AP通信が「2~3万人」と報じていることを明らかにして、「100万人」を一笑に付したけれど、いくらなんでも「2~3万人」は少なすぎるように思われた。
私には、甲子園球場を埋め尽くした群衆より遥かに多くの人が集まっているように見えたのである。記者の方によると、甲子園球場は「4~5万人」入るらしい。それでもAP通信の「2~3万人」を否定しようとはしなかった。
「AP通信」に納得できなかった私は、その場でアナトリア通信の元チーフカメラマンだった友人に電話して訊いてみたところ、次のように答えてくれた。
「私も今、同じ番組を観ているが、100万人は大嘘。あのイエニカプの会場の収容人員は50万人だよ。しかも、今見ていると後ろの方が少し空いている。私は45万人ぐらいだと思う」。
しかし、「甲子園球場の群衆よりも少ない」と見ていた記者の方が、この話に納得するはずもなかったのである。
結局、私が記者の方たちと1週間ほど同行して解ったのは、「書く記事の内容は最初から決められており、現地取材は、記事の内容に合う発言や映像を揃える目的で行う」ということだった。
そのため、発言した人の氏名も訊き出そうとしていたけれど、例えば「メフメット・オズテュルクさん」だったら、同姓同名の人がいくらでもいたに違いない。また、身分証明書でも確認しない限り、「自称」が何処まで本当なのか解ったものではない。私は氏名公表に何の意味があるのかさっぱり解らなかった。
もちろん、11年を経て、私がこんな所で御託を並べているのは、それこそ全くの無意味だろう。11年前、記者の方たちは、ある仕事のためにトルコを訪れ、その仕事を無事に果たして日本へ帰ったのである。
多分、遠からずエルドアン政権は倒れることになっていたので、それを見通す記事が書ければ、それで良かったのではないか?
ところが、その3年後の「クーデター事件」でもエルドアン政権は倒れなかった。未だに倒れていない。
「倒れることになっていた」のは、おそらく米国が望んでいたからだろう。それはバイデン大統領が「クーデターで倒せなかったエルドアンを選挙で倒すためにトルコの野党を支援する」と述べたところにも現れていた。
「ゲズィ公園騒動は、米国が仕掛けたカラー革命の始まりだった」というトルコの識者らの主張には、それなりの根拠があったと思う。