《2020年5月27日付け記事の後半の部分を修正して再録》
2005年1月21日付けトルコのラディカル紙のコラムで、ヌライ・メルト氏はイスラムの犠牲祭に関連して以下のように述べていた。
「この世界で生きることにはそれなりの代価があるはずだ。私たちの近くに存在する生物の命は、この代価を思い出させる為に重要である。」
現代の日本の豊かな生活のためにも、もちろん代価は支払われているに違いない。中東の軍事衝突で流された血もその代価に数えられるのではないだろうか?
米国は石油価格を制御下に置くため、中東へ介入し、日本もその恩恵を受けていた。ところが、直接介入する米国はリスクを背負っていたものの、日本の私たちはリスクを意識していない。支払われた代価にも無関心だ。そのように思えて仕方がない。
「因果はめぐる糸車」といった言葉を忘れてしまい、世界中の様々な悪事に自分たちも関わっているとは全く考えようとしない。代価もリスクも無しに生きられると思い込んでしまう。
それも、昔の人からすれば、途方もない長寿を当たり前に生きようとしている。
昔ではなく現在でも、医療の整備が進んでいなかったり、健康が意識されていない国々では、「60代70代の死」も決して早いとは言えないだろう。
そういった国々でコロナによる死亡率が低いのは、リスクの高い年齢に達する前に、多くの人たちが他の要因で亡くなっているためであるかもしれない。
長寿が当たり前になり、政変や内戦といった危機も全く予期されないほど平穏になった日本で、私たちは「諸行無常」という言葉も忘れているような気がする。
何事も不変で不滅であるかの如く感じてしまう。例えば、日本で「日本という国家」が滅亡する不安を抱いている人はどのくらいいるだろう?
私が滞在していた頃(1987~8年)の韓国には、「韓国という国は無くなるかもしれない」と普通に考えている人が少なくなかった。おそらく中国も同様だろう。
中国には「易姓革命」という考え方もあるから、多くの人々が中国共産党という「王朝」も滅びる時があると思っているはずだ。
ところが私たちは「万世一系」などと言って安逸をむさぼろうとしている。「島国でたまたま外国からの侵略を受けずに済んだ」とは考えようとしない。
コロナ騒ぎを機会に色々考えてみなければならないような気がする。
