メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

「身捨つるほどの祖国はありや」

 《2018年12月17日付け記事の再録》

「マッチ擦るつかの間の海に霧ふかし 身捨つるほどの祖国はありや」という寺山修司の短歌、私でも知っているくらいだから、広く人口に膾炙している詩なのだろう。
音の響きも素晴らしいし、なんとなく情景が目に浮かぶようで、やはり相当な傑作に違いない。
とは言うものの、「祖国はありや?」という問いに対する答えは何かと訊かれたら、私は少なくとも「あった」と答えるよりないと思う。世界が戦場と化したこの200年ほどの歴史の中で、大半の人々が「そんな祖国はない」と答えた国々の多くは、他国に蹂躙されて辛酸をなめてきたのではないだろうか?
インド人就学生のサイードさんは、配送センターで働く日本人が「国のために死ねる」と語ったので驚いたという。しかし、少なからぬ日本人が今でも仕事のために死んでしまっている現状を考えれば、それほど驚く必要はないかもしれない。
配送センターに荷物を運んでくる長距離トラックの運転手さんなどは、それこそ命懸けで働いている場合もあるはずだ。
私も長距離トラックを運転していた22~23年前、東名高速の箱根付近の下り坂を100キロ以上で走行中に、一瞬寝てしまい、目前に迫った左カーブに慌てて左へハンドルを切り、今度は左側の崖に突っ込みそうになって右へハンドルを切るという蛇行を何度か繰り返して事なきを得たことがある。
正気に返るのが一瞬でも遅かったら、あるいは左側の車線を走行中の車があったとしたら、大事故になって私は死んでいたはずだが、巻き添えになった方がいなければ、大したニュースにもならず、私の存在そのものが直ぐに忘れ去られていただろう。

何のために死ぬのか解らないけれど、人が死ぬのは当たり前のことだから、「国のために・・・」もそれほど大袈裟に考えなくて良いかもしれない。
例えば、私が60年経ってまだ生きていたら、それこそ非常に大きなニュースになる。23年前に35歳で死ぬのは、そんな途方もないことより、遥かに平穏であったような気もする。
しかし、現在の中東で、多くの若い人たちがあっけなく死んでしまう状況を考えたら、とても“平穏”だなんて言っていられない。
トルコは、この中東の惨禍に巻き込まれないで済んでいるものの、それは100年前の独立戦争で、国のために命を捧げた人たちの賜物であるに違いない。「身捨つるほどの祖国」は確かにあったのだと思う。
ところで、「良鉄は釘にならない。良民は兵にならない」と言う中国の人たちに、「国のために死ねますか?」と訊いたら何と答えるのか? 私が今までに知り合った人たちを思い浮かべる限り、「そんな馬鹿な!」と答えるような気がしてならない。
そのため、中国とアメリカが旧来の通常兵器で戦争に突入したとすれば、中国はアメリカに圧倒されてしまいそうだ・・・。アメリカに、命懸けで戦う人たちは結構少なくないらしい。
ところが、核兵器のお陰で、かつてのような“戦争”はもうできない状態になっている。果たして、核兵器を有する大国で、「国のために・・・」という決意は、今、どのくらい意味があるのだろう?

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