メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

「犠牲祭の思い出」

《今日は、イスラムの犠牲祭なので、2007年1月3日付けの駄文を修正再録し、24年前、2000年の犠牲祭の思い出を振り返ってみたい。

2000年の犠牲祭は、黒海地方のオルドゥ県で友人の家族と過ごした。
当時、友人はオルドゥ県の黒海に面したユンエという小都市で小・中学校の教員をしていたが、犠牲祭の休暇に入ると、ユンエから山間に暫く入った町にある奥さんの実家へ帰省した。
私も犠牲祭が始まる前日の晩に町へ入り、友人と共に奥さんの実家で犠牲祭の朝を迎えた。

犠牲祭の朝、友人を初め家族の男たちは、先ず町のモスクへ「犠牲祭の礼拝」に出掛ける。私は一緒にモスクの前まで行ったけれど、礼拝には参列せず、その辺を散策しながら、礼拝が終わるのを待った。
多分、この礼拝には町の男たちが全員参列していたのだろう。モスクでは中庭に至るまで、堂内に入りきらない参列者が鈴なりとなって礼拝を営んでいた。
礼拝が済むと、今度はモスクの門前に参列者が並び、順に犠牲祭の挨拶を交わすことになる。

この時、注意して良く見ると、友人の岳父は順列の先頭となる門の直ぐ前に立ち、他の参列者より一層の敬意が込められた挨拶を受けているようだった。

後で友人に訊いたところ、岳父はこの町一番の名士なんだそうである。奥さんの実家は四階建てぐらいのビルで、それほど贅沢な造りでもなかったが、隣のビルも所有していたようだから、やはり相当な資産家だったのだろう。
こういった形式的な挨拶やヒエラルキーには抵抗を感じる人がいるかもしれないけれど、これによって町の安寧秩序は穏やかに無理なく守られていたのではないかと思う。
挨拶も済んで家に戻ると、いよいよ支度をして、生贄を切りに行くわけだが、この年は、少し離れた村に住む親戚の所で切ることになっており、三台の車に分乗して出発した。
親戚の所へ着くと、広い庭では子供たちが牛と羊を相手に遊んでいて、どうやらこの2頭が生贄として屠られるらしい。
準備が整うと早速祈りが捧げられて、先ずは羊から屠りにかかる。おとなしく寝かされた羊の喉の方から切り込んでいくと、夥しい血が流れ始め、羊は痙攣したようになるけれど、直ぐには絶命しない。
友人の中学生になる長女は、先ほどこの羊と遊んでいた幼い子供たちの肩に軽く手を置いて、一緒に羊の方を見るよう促す。一人は痙攣する羊を見てちょっと嫌な顔をしたものの、長女が静かに「見て生死を争っているのよ」と言うと、頷いて目を背けずに、羊の首が落とされ完全に絶命するまで、それを見守っていた。
この長女はとてもお茶目な娘で、人の好い優しいお父さんをからかって、キャッキャッと笑ったりすることがあるけれど、この時ばかりは最後まで緊張した真剣な表情を崩さなかった。
羊の次に牛が屠られる番になると、大きな牛を押さえるために私も手を貸したが、牛は首を落とされた後も足を痙攣させ、その強い生命力を見せつける。私はこれを見て驚きながら、死の凄まじさに厳粛な思いがした。

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