メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

犠牲祭の意義

去年(2011年)の今頃、トルコで有数の肉加工品会社を訪れたことがある。トルコ風の牛肉ソーセージ(?)スジュクや牛肉ハムのパストゥルマが有名な老舗で、オスマン帝国の末期に、中部アナトリアカイセリの特産品だったパストゥルマをイスタンブールに広めたのは、カイセリのアルメニア人が経営するこの会社だったそうだ。

近代的な設備の工場を見学させてもらったが、この会社は自前の屠殺場を持っていて、そこで撮影した牛の屠殺作業もビデオで見せてくれた。

あらかじめ後足にロープを巻き付けられた牛が作業場に入ると、ロープをヴィンチで少し巻き上げ、牛は横倒しにされる。それから、一昨日の犠牲祭の手順と同じように、アッラーへ祈りが捧げられ、熟練の職人が一般に使われている刃物より遥かに大きい刀で一気に牛の首を掻き切ってしまう。それは見事な手際であり、ビデオだから良く解らなかったが、牛は唸り声を出す間もなくぐったりした。そして、ロープが上まで巻き上げられ、牛は逆さ吊りにされて次の工程へ運ばれて行く。

ビデオはヨーロッパから視察団が来た際に撮影されたらしい。視察団は工場の衛生状態ばかりか、屠殺の作業まで調べて行くようだ。ビデオを説明していた経営者の方は、「彼らときたら、牛が絶命するまでの時間をストップウォッチで計っていましたよ」と呆れた表情で話していた。

牛が唸り声を出してしまうような屠殺のやり方は、こういったヨーロッパの人権委員だか獣権委員だかに監査されたら間違いなくアウトだろう。

しかし、流れ作業のように行われる屠殺場のやり方では、生命の尊厳が全く感じられないような気もした。“動物に苦痛を与えない”などと言うが、例えば、狭い豚舎の中で一生を過し、まるで“肉”になる為に生まれて来たような豚にとって、苦痛とはいったい何だろう?

いずれにしたって、これは人間が傍から見て考えているだけで、当の豚や牛には何の関係もない。問題になっているのは人間の感情であって、豚や牛の気持ちではない。

人間は、動物に限らず人の苦痛についても傍から見て判断しようとする。「絞首刑は人に苦痛を与えるから止めるべきだ」と主張する人がいるそうだけれど、絞首刑、電気椅子、薬殺のどれが一層苦痛だったのか、いったい誰に訊いたんだろう? 

柔道の絞め技で何度も絞め落とされた私の経験から申し上げると、意識が戻った時、あれは深い眠りから覚めるような感じで、全く苦痛がなかった(覚えていないだけかもしれないが・・)。でも、傍から見た場合、落ちた人は白目を剥いて痙攣したりして、とても苦しんでいるように見える。

一昨日、私は牛の唸り声を聞いて息苦しくなってしまったが、その後、息絶えてしまった牛の目を見たら、何だか静かで涼しげだった。周りの人間たちは、解体作業に大わらわだったり、見慣れない光景を見て未だドキドキしていたのに、牛の目だけは静かだった。

静かに見えたのは、私の感情が昂ぶっていたからかもしれない。牛はそのあと肉になり、私は昨日、その肉をご馳走になって来た。肉がどうやって肉になったのか見て来たのは、私とエルシンとお父さんだけである。

昔は、多くの家族が総出で羊を屠ったりしたらしい。さすがに切るのは慣れた人にまかせたかもしれないが、羊を押さえたりして皆で手伝ったのだろう。

それが大きな牛になると、殆どが初めから専門家(といっても、犠牲祭の時だけで熟練の職人というわけではなさそうだが・・・)まかせになってしまう。見ている人たちは余り手を汚すこともない。専門でやっている人たちは、「牛が暴れる可能性もあるから、皆さんは下がってください」と注意していた。

これでは、犠牲祭の意義が半減するけれど、誰かが立ち会って祈りを捧げるだけでも意義はあるだろう。日本では、皆が必要としているこの屠殺の作業を一般社会から遠ざけて全く見ないように努めたばかりか、屠殺に携わる人たちを差別してきた。

それだけではない。「屠殺」を“差別用語”として排除しようとする動きもあるらしい。屠殺の作業どころか“屠殺”の文字さえ見ないようにする。しかし、皆の必要を満たす為に屠殺は続けられる。恐ろしい欺瞞と言わざるを得ない。

私は日本でも“犠牲祭”が実践されたら素晴らしいと思う。