メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

つり目の仕草はモンゴロイドに対する差別なのか?

セルビアのバレーボール選手らが「つり目」のポーズで写真を撮り、モンゴロイドの東洋人に対する差別ではないのかと話題になっているらしい。

トルコ語で「つり目」は「çekik göz(チェキッキ・ギョズ)」と言うけれど、「çekik(チェキッキ=引っ張られた)」だけでも同様の意味になり、この「çekik(チェキッキ)」がモンゴロイドの東洋人を指す言葉として使われていたりした。

今はどうなっているか解らないが、1992~4年頃、イスタンブールの絨毯屋や土産物店などで「çekik(チェキッキ)」は、店内にいる日本人客を話題にする時の隠語だった。「このジャポン(日本人)の客が・・・」と言えば、話題にされていることが解ってしまうからである。

トルコの人たちは否定するかもしれないが、そこに多少嘲笑的な雰囲気があったのは確かじゃないかと思う。

94年だったか、イスタンブールの旅行代理店で入口の辺りに立っていたら、奥の方で電話に受け答えするトルコ人運営者の声が聞こえてきて、ちょっと嫌な言い方で「チェキッキだよ!」と答えたのが耳に入ったので、彼から見える位置に顔を出したところ、明らかに『しまった!』という表情で私の方を見た。

『日本人を多少嘲笑的に扱っていたのがバレて焦った』という感じが顔に現れていた。彼の奥さんは日本人女性だったのである。

その頃は、イスタンブールの街角で「つり目」の仕草をされたり、「チンチャンチョン!」と声をかけられたりすることも多かったが、いつ頃からか殆ど見られなくなった。

「チンチャンチョン!」にも嘲笑的な意味合いがあったのは確かだろう。しかし、街角で年配のトルコ人女性から穏やかに「チンチャンチョン」と微笑みかけられた時は、どういう態度で応じたら良いのか解らなくなってしまった。

2010年頃、映画等のエキストラ配給エージェントに登録して以来、私は映画やテレビドラマに何度かエキストラで出演したけれど、その多くは滑稽な役回りだった。やはり、モンゴロイドの東洋人には滑稽な雰囲気が感じられてしまうのだろうか?

しかし、トルコ人も元来は中央アジアから渡って来たモンゴロイドの民族ということになっている。

90年代、ソビエトが崩壊してカザフスタンウズベキスタンといった中央アジアの国々との交流が盛んになると、「私たちは、çekik göz(つり目)で中央アジアから出てyuvarlak göz(丸い目)になって戻って来ました」なんてキャッチフレーズが使われたりもしたけれど、これを中央アジアの人たちがどのように感じていたのか解らない。

そもそも科学の発展により、DNAの分析が進められると、現在のトルコ人には中央アジア由来のDNAが余り見られないことが明らかになったそうである。

また、かつてトルコの人たちが『我々は中央アジアからやってきた勇猛な騎馬民族の子孫』という伝承をどのくらい誇りに思っていたのか疑わしく感じたこともある。

90年代のいつだったか、トルコの人から「東洋にも日本人という優秀な人たちがいるお陰で、私たちは先祖がモンゴル高原にいたことを恥じなくても済みます」と言われて、非常に複雑な気持ちになったのを思い出す。

2002年、AKP政権が成立して国会議長に選ばれたビュレント・アルンチ氏のルーツがアナトリア遊牧民だったと報道されたら、クズルック村工場のトルコ人同僚は、「それじゃあ正真正銘のトルコ人だ」と蔑むように笑っていた。

アルンチ氏はちょっと色黒でモンゴロイドというよりインド辺りの人を思わせる風貌だが、同僚のエンジニアは、とても色白だった。

彼は、観光地として有名なサフランボル近くの村の出身で、バルカン半島から移住してきたという村の住人たちも皆色白であるらしい。

どうやら、ルーツがモンゴロイドであるよりは、コーカソイドの白人である方が誇らしい気分になれたようである。

我々モンゴロイドの日本人も、明治の初期には、鹿鳴館でダンスを踊ったりして、生活スタイルや服装から西欧化を徹底しようと努めたけれど、そのうち、いくら徹底しても、モンゴロイドの顔はどうにもならないことに気がついた。それで結局、徹底的な西欧化は諦めてしまったのだろうか?

トルコ人の場合、スタイルさえ西欧化すれば、外見は西欧人と見分けがつかなくなるため、鹿鳴館のダンスでも、ある程度は満足を得られたかもしれない。

満足できなかった日本人が、「気持ちを入れ替えて、富国強兵に邁進した」ということなら、私たちはこのモンゴロイド顔に感謝しなければならない。モンゴロイド顔で本当に良かった!

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