メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

コロナのニュースにはもううんざりだが・・・

世間は相変わらずコロナで忙しいようだが、私の家にはテレビもないし、新聞もとっていないので良く解らない。

それでも、昨年まではコロナ関連の情報をネットから探して読んでいたけれど、医学的な知識が不十分な私には是非の判断など下しようもない論争が繰り返されるばかりで、何だかどうでも良くなってしまった。

コロナを過度に恐れる言説も、ワクチン接種に拒否反応を示す言説も、ますます極端になってきて、とてもついていけない。考えるのが面倒になった。

結核が死病と恐れられ、毎年、老若男女を問わず、1万人当たり20人ぐらいの人が死んでいったという1910~30年代の状況に陥れば考えるかもしれないが、コロナは死亡者の多い米国等でさえ、その状況に至っていない。

そもそも、1910~30年代の人たちは、結核に対して、今のコロナのようなパニックを起こしていなかったようである。男子であれば、結核より何より戦地に召集されるほうが遥かに危険だったということもあるだろう。

しかし、何故、現代の人々はコロナ程度のリスクにこれほどパニックを起こすようになったのか?

「コロナは新型で未知の病気だから」と言う人がいるけれど、当時の結核は、予防法も治療法も明らかになっていない死病であり、コロナより未知の部分も大きかったはずである。というより、医学の水準も低かった当時は、結核に限らず、身の回りは解明されていない未知なことばかりだったのではないかと思う。

現代では、当時の未知が次々と解明されて来たにも関わらず、人々は未知に慄き、僅かなリスクも避けようとする。パニックを起こしてしまうのは、平和と安定が長く続いた為かもしれない。

以下の「日本人はなぜゼロリスクを求めるのか?」で、池田信夫氏は「定住する傾向が強い国はリスク回避的になる」と解説している。

考えてみると、私は高校卒業以来、各地を転々として、およそ定住する傾向は少なかったように思える。

この43年の間で最も長い期間住んだのは、2017年の4月に引き払ってきたイスタンブールはイエニドアンのアパートだが、それでも5年半である。

そのために、私はそれほどリスク回避的になっていないのだろうか? その辺はどうだか解らないものの、生活設計の杜撰さによって生じた厳しい経済的な条件もあって、常に多少のリスクは覚悟しなければならない状況に追い込まれていたかもしれない。

もちろん、だからと言って自暴自棄になっているわけじゃないけれど、「世の中、どうにもならないことばかり」と思って来た所為か、コロナもその「どうにもならないこと」の一つに考えてしまうようである。

こんな私が職場の都合とはいえ、真っ先にワクチン接種を受けられたのは、何だか申し訳ないような気もする。

副反応に対する懸念もなければ、効果に対する期待も余りなかったのだから、どなたかワクチン接種を強く望んでいる方にお譲りしても良かったくらいである。

いずれにせよ、ワクチン接種をどんどん進めなければ社会の「安心」が得られないだろう。

まあ、世の中は矛盾だらけで、理屈通りにはならないということかもしれない。今はオリンピックで世の中の気分が少しでも変わるように祈るばかりだ。