メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

ハングル事始め:「我々の子供たちは我々の民族学校へ」

1985年、私は上記の産廃屋で働いていた時に韓国語の勉強を始めた。

この会社へ来る前にも、韓国・朝鮮に対しては多少の興味を持っていたけれど、それは中国やシルクロードへの憧れに付随したものに過ぎなかったような気もする。

韓国・朝鮮を初めて身近に感じたのは、1980~3年にかけて飯田橋の近く(文京水道)でアパートを借りて住んでいた頃、凸版印刷の裏手にあった焼肉屋さんで常連のようになってからだ。

在日朝鮮人一世のおばさんが作る料理は何を食べても美味かった。後年、韓国へ行ってもあれほど美味いユッケジャンは食べなかったような気がする。

当時は、飯田橋駅近くに総連系の新聞社(朝鮮新報)があり、そこの人たちが来て朝鮮語で会話しながら飲み会を開いていたりした。私は全く解らないまま、言葉の響きに耳を傾けた。

しかし、そこでハングル文字を目にする機会はなかったと思う。ハングル文字が気になるようになったのは、1983年に産廃屋で働き始めた後のことである。

社長は在日朝鮮人二世で、朝銀朝銀信用組合)とも取引があり、事務所の受付には朝銀の大きなマッチ箱が置かれていて、そこに何やらハングルで記されていた。これがとても気になったのである。

運転手の中には、朝銀に口座を持っている者も少なくなかった。朝銀の係が毎日会社へ来てくれる利便性もあったかもしれないが、おそらく『朝銀で口座を作れば社長の覚えがめでたくなる』とでも考えていたのではないか。

私は『よくもそんな恐ろしいことが出来る』と思った。当時は、「地上の楽園」の神話が崩壊して、既に大分経っていただろう。そもそも、社長自身が運転手らへ口座を作るように一言も勧めていなかった。それどころか、何かの折に、「お前たちの中に朝銀の口座を持っている者がいるが、俺は作れなんて一言も言ってないからな」と話していたくらいである。

社長は親族が北帰しているため、総連から抜けられなくなっていただけではないかと思う。今後の業界の見通し(産廃と言うより建設土木業界の)などについて語っているのを聞くと、普通の保守派の政治家や財界人の言っているような話とそれほど変わらなかった。

さて、朝銀のマッチ箱だけれど、何が記されているのか、どうにも気になったので、一つ調べてやろうと簡単なハングルの教科書を購入して来た。宝島の「一週間で学べるハングル」というような本だったと記憶している。

まず、ハングルが凄く簡単で覚えやすいことに驚かされた。とりあえず、3日ぐらいでマッチ箱に記されているハングルの読みは解るようになった。

「우리 애들은 우리 민족학교에 우리 돈은 우리 은행에(ウリ・エドゥルン・ウリ・ミンジョクハッキョエ・ウリ・トヌン・ウリ・ウネゲ)」

その意味もほどなくして解った。「我々の子供たちは我々の民族学校へ。我々のお金は我々の銀行へ」。最後の「銀行」は、「朝銀」だったかもしれないが、「朝鮮銀行(조선은행)だったような気もする。

日本の法規上、「朝銀信用組合」を名乗らされていただけで、「朝銀」が「朝鮮銀行」の略であったのは間違いのないところだろう。

いずれにせよ、マッチ箱のハングルが簡単に解決すると、私のハングル熱・韓国語熱はいよいよ勢いが止まらなくなった。直ぐに簡単な教科書では満足できなくなり、神田近辺の現場へ行った帰りに、神保町の書店へ寄って、高麗書林という出版社の出していた韓国語の教科書を購入した。

しかし、付随の音声テープがなかったため、出版社へ電話したところ、「こちらまで来て頂ければ・・・」というお話しである。高麗書林は水道橋駅の近くにあり、そのまま4tダンプで直行した。

高麗書林のビルの前にダンプを停め、2階か3階にあった事務所の中へ入ると、さきほどの電話に出たと思われる中年の男性だけがそこにいた。来意を告げたら、電話で前以て伝えてあったため、直ぐに解ってもらえたが、かなり汚れた作業着で現れた私に、多少驚かれたのではないかと思う。

しかし、あの日、韓国語を勉強しようと決意していた私の目は結構輝いていたのだろう。応対してくれた方は、わざわざ訪ねて来た若者を見て喜んでいるようだった。汚れた作業着など目に入らなかったかもしれない。