メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

沖縄人と大和人?(川崎の産廃屋でダンプの運転手)

《2003年4月1日付け記事の再録》

94年の9月、トルコから帰国すると、とりあえず川崎市にある産廃屋でダンプの運転手として働き始めた。 

この会社を選んだことに特別な理由があったわけではない。「住み込み歓迎」と書いてあるのが目に留まったのと、川崎市なら韓国人がたくさんいるかも知れないと考えたぐらいである。 

トルコにいた3年の間に、以前せっかく学んだ韓国語がシドロモドロになってしまっていたのをなんとかしたいと思っていたのだ。
実は私が韓国語を勉強し始めたのも、その昔お世話になった産廃屋の社長が在日の朝鮮人であったことがきっかけだった。それでこの川崎の産廃屋も、ひょっとして在日の人の会社ではないだろうかという妙な期待があった。 

ところが、面接を受けに行って社長の顔を見た時に、これはどうも見当違いだったなと思わされた。ゲジゲジの太い眉にグリッと丸い大きな目、朝鮮・韓国の人には滅多にない顔だった。
しかし、見当違いでも何でも、妙なことで選り好みをしている場合ではなかったから、結局ここで働くことにしたのである。住み込みとはいえ、古いアパートを寮として使っていて、ちゃんと個室が与えられ、住み心地は悪くなさそうだった。
翌日、荷物を持って寮に行ったのだが、道すがら近くで「沖縄料理」という看板を目にした。沖縄料理なんて珍しいなと思い、荷物を整理すると早速そこへ一人で出かけてみることにした。その日は全員夜勤だとかで、寮には誰もいなかったのである。
さて、寮を出ると、目指す沖縄料理の店へ行きつく前に、直ぐ別の沖縄料理屋の看板が目に飛び込んで来た。あれっ、ここにもあったぞと思ったのも束の間、次から次へと沖縄料理の店が出て来た。中には沖縄食材店らしきものまである。ここはどうやら沖縄の人たちの街であるようだった。
試しに、「うちなーすば、やじグワ」と意味不明の言葉が看板に大書きされている食堂に入って見ることにした。腰を落ち着けて壁に掛かっているお品書きを見てみると、これも何のことやらさっぱり分からない。 

「テビチー」「ナベラー」「ゴーヤチャンプル」「チキナー」。かろうじて、「山羊刺し身」「山羊汁」「やきそば」等々がどんなものであるか見当が付いたぐらいである。

 しょうがないから店の人に一つ一つ訊いてみることにした。テビチーは豚足のこと、ナベラーはヘチマ、ゴーヤチャンプルにが瓜炒め、チキナーは高菜。 

やれやれと思ったが、その時、周囲の視線が自分に注がれているような気がしてハッとした。「こいつ、よそ者だな」と言われているような感じがしたのである。 

つい3週間ほど前まで居たイスタンブールで、もう長いことそんな風に感じたことがなかったのを思い出すと何だかおかしかった。
その翌日、年輩の運転手が一緒に仕事の要領を教えてくれることになった。ところが、私がハンドルを握って道に出た途端、とんでもないポカをやらかしてしまった。無意識のうちに右の車線に出てしまっていたのだ。 

「アホ何すんのや。危ないやないか」と一喝された。見事な関西弁だった。それから少しトーンを落として、「あんた外国で暮らしとったことでもあるんか」と訊いてきた。

 そうだと答えると、「やっぱりそうか、俺たちも経験あるから、よう分かる」と言う。

 ちょっと意外な感じがして「えっ、どちらの国に行かれていたのですか」と尋ねたところ、「沖縄やで、外国やないぞ。あんた知らんのか、返還前の沖縄は右側通行だったのや。はじめて大阪へ働きに出た時はこれで苦労したわ」というのだ。すでに関東での生活の方が長くなったのに、若い頃に苦労して身に付けた関西弁はなかなか抜けないそうである。
この人もすごいゲジゲジ眉毛だったが、やはりあの社長も沖縄の人で、寮にいる人もほとんどが沖縄の人らしい。 

果たしてその晩、寮長さんのところへ挨拶に行くと、その部屋に4~5人が集まっていて、まあ一杯飲んでいけという。そのうち皆が興にのって話し始めると、驚いたことに見事なくらい何を言っているのかわからない。 

方言などというものではない、完全に外国語である。しばらくして、2~3人新たにやって来たが、彼らが私の顔を見て何とか言った中の「ヤマトンチュ」というのを聞き取ることができた。これは私のことを指して言ったのだから、「この人、大和人か?」ということなのだろうと察しがついた。 

「そうか俺は大和人なのか」と思いつつそれを確かめると、「そう、ヤマトンチュは日本人のことだよ」という返事だ。チュというのは人のことらしい、だから沖縄人のことはウチナンチュというのだそうだ。 

私は気になっていた「うちなーすば、やじグワ」のこともついでに訊いてみた。「うちなーすば」は「沖縄ソバ」、「やじグワ」は「やじさんの小さな店」といったぐらいの意味だと教えてくれた。そして、「あそこで飯が食えるなんて、お前は変な日本人だな」と言われた。
私はそれからも「やじグワ」へせっせと出かけて、ひとつきもしないうちに全メニューを制覇した。ほとんどのものを最初から何の抵抗も無く旨いと思って食べることができた。 

ただ、炒め物などに入ってくるポークと呼ばれる輸入品のソーセージ缶詰だけは、何度か口にするうち、どうも鼻についてきて、注文する時から入れないでくれと頼むようになった。 

店のおばさんは、「ヤマトの人の中には、ここで食べれるのはポークだけだなんて言う人もいるのに、あなたは変わっている」とおもしろがった。
このポークというのは、戦後、米軍によってもたらされたそうだが、今ではすっかり沖縄の食生活にとけこんでいるように見える。こんな風にして沖縄特有のチャンプルー(ごちゃ混ぜ)文化が生まれるのだという。 

この街で沖縄の食料品を扱っている店には必ずこの缶詰がおいてあったが、他所ではなかなか手に入らないだろう。ラベルを良く見ると米国製よりデンマーク製が多かった。
このポークが大和人にとって一番食べ易いとすれば、食べ難いのは山羊汁ということになるだろう。さすがにこれは、私も慣れるまでに、ちょっと時間が掛かった。山羊の肉はかなりくせがある。あまり上等でない羊肉の匂いをもっと強くしたような感じだ。
トルコでも、南東部のウルファやカジアンテップへ行った時、市場で山羊が沢山売られているのを目にしたが、アンテップのちょっと洒落たレストランではメニューに、「当店は全ての料理に羊肉を使用しています」とわざわざ書かれてあった。山羊はまがいものという扱いだったのかも知れない。
山羊汁では内臓も一緒に煮込んでいるから臭みはさらに増してしまう。味付けは塩だけで、匂いを和らげる為、食前に生姜のすりおろしたものとヨモギの葉を加える。慣れれば何ともいえない味わいだが、沖縄の人たちも、これを薬餌として食べるようである。山羊には血圧を上げる効果があり滋養強壮に良いのだそうだ。
この山羊の効用については、以前韓国にいた頃にも聞いたことがある。韓国では山羊を内臓ごと圧力釜で煮込んで薬効のあるそのエキスを抽出する専門の業者もいた。といっても、これはあくまでも薬であり、一般に山羊を食べるということではなかった。
しかし、沖縄の人たちの山羊好きは相当なものだ。会社で借りているダンプの駐車場でも、山羊が数匹放し飼いにされていたことがある。

この山羊は食用として売るためのもので、買い手が見つかるまで、そこで餌を与えられていた。山羊は減ったり増えたりしていたが、この山羊の売買は社長のサイドビジネスでもあったのだ。

滅多にはなかったが、駐車場で焼肉パーティーをする際に、社長がこの中から一匹つぶして、我々運転手に振舞うこともあった。屠殺解体は何時も社長の手で行われ、その手際は見事なものだった。 トルコでは羊を屠った後、直ぐに皮を剥いでしまっていたが、ここで見た沖縄のやり方はちょっと違っていた。屠った山羊は皮をそのままにして、さっと熱湯に浸けたうえ、火で炙りながら丹念に毛だけをむしり取るのだ。なぜなら、山羊汁の場合はともかくとしても、刺し身で食べる時には、この皮の部分が特に美味しいからである。

山羊まで食べるようになると、寮にいる人たちは「おまえは本当に日本人らしくない奴だな」と言いながら結構喜んでくれているみたいだった。でも、その前に韓国の友人が寮に電話してきたこともあったから、実のところは「こいつも韓国人ではないのか」と思われただけだったのかも知れない。
なにしろここで韓国人はごく身近な存在だった。というのも、元請けの産廃処理場は在日韓国人が経営していたのである。会長は韓国生まれの一世で、体調を崩した時には沖縄人の社長に頼んで、あの山羊を買い求めることもあったそうだ。こんなことから、文化的にもお互いに近いものを感じていただろう。
隣の部屋にいたKさんなどは、私にこう話し掛けてきた。「日本人というのは随分おかしな連中だな。おまえもそう思わないか」。

 私が「自分も日本人だからそう言われても困る」と言うと、「俺は自分のことを日本人だとは全く考えていないから変な気を使う必要はないよ」なんて言いながら、韓国について知りたがった。
私もここで働いた一年の間に色々なことを教わった。それまで、あまりにも沖縄について知らず、関心もなかったことを恥かしく思った。

沖縄が130年前までは独立した琉球王国であったという歴史上の事実は知っていたとしても、その言語をはじめとする文化が如何に独自なものであるかを実感として分かっていたのではない。そして、日本の社会に今も残る差別的な感覚に対する沖縄人の憤りの声を聞き驚かずにはいられなかった。

Kさんは現場で大手ゼネコンの管理者から、「運転手さん、日本国籍もっているのか」と訊かれたこともあったそうだ。不法就労と疑ったのだろうが随分ひどい話である。

 よく世間には、朝鮮・韓国人は顔を見れば分かるなんていう人たちがいる。そんなことは無理に決まっているのだが、一応は日本人であるはずの沖縄人のことは、しっかり見分けてしまうのである。
言葉にしても同様のことが言えるようだ。ダンプで業務無線を使っていたが、沖縄の言葉(ウチナーグチ)で交信すると管理局からクレームが来るそうである。

 社長によれば、暗号のようなもので交信してはならないという規約に触れるという。日本語の一方言と決めつけておきながら、いざとなれば暗号扱いするとは、これもひどい話だ。

韓国語での交信はどうだろうかと社長に訊いてみたところ、「韓国語というのは大韓民国公用語だろ。それなら良いんじゃないか。我々のは言葉として認められていないんだよ」という答えが返って来た。
最近は沖縄でも日本語への同化が進み、都市部においてはウチナーグチを解さない若者も増えたそうだが、川崎市のここではウチナーグチが主流であり、私と同じ世代でまともに日本語を話せない同僚もいた。

日本語を話す場合でも、ウチナーグチの表現をそのまま使うことが良くあった。中でも面白いと思ったのが「歩く」の使い方。

ダンプの運転席に座っている時、「歩け」と言われたら、それはダンプを走らせろということ。ダンプから降りて自分が歩いてはいけない。

 他にも学校に通うとか、何かの仕事に携わるといった時にも、この「歩く」(ウチナーグチではアチャルというらしい)を使うようだ。

 これにまつわる有名な笑い話も一つ教えてもらった。昔、ボクシングの世界チャンピオンになったばかりの具志堅用高氏に、記者が「ボクサーになっていなかったら今頃何をしていましたか」と訊くと、用高氏は「海で歩いています」と答えたそうだ。もちろんこれは「海で働いています」、すなわち漁師になっているという意味なのだが、世間では、しばらく迷答として話題になったという。
ところで、この街にはウチナーグチが飛び交っていただけではない。沖縄料理店で、スペイン語ポルトガル語の会話が聞かれることも珍しくなかった。沖縄から南米に移民した人たちの2世や3世が出稼ぎに来ていたのだ。

 彼らの中には日本語はダメでもウチナーグチなら何とかなるなんて人が多かった。料理店をはじめた人もいて、「沖縄&南米料理アミーゴ」という看板には驚かされたものだ。

この街は、直ぐ近くにコリアタウンもあったりして、実にコスモポリタンな雰囲気。どうやら私には、イスタンブールからごく当たり前な日本へ帰ってくることは許されていなかったようである。