メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

ノーベル賞化学者のトルコ民族主義

2015年、ノーベル化学賞を受賞したアジズ・サンジャル氏に電話でインタビューした英国のBBC放送は、まず始めに「貴方はアラブ人なのか?」と問うたそうである。これに立腹したサンジャル氏は、「ジズレで生まれたとしても、カルスで生まれたとしても、私はトルコ人である。アラビア語クルド語も話さない!」と答えたという。
BBCが「アラブ人なのか?」と問うた背景には、サンジャル氏の出生地と従弟であるミトハト・サンジャル氏の存在があったのではないかと思う。
サンジャル氏は、トルコの南東部マルディン県の出身である。マルディン県には、アラビア語クルド語を話す人が多く、従弟のミトハト・サンジャル氏はジャーナリストから政界へ入り、クルド系政党HDPの国会議員として活動している。ミトハト・サンジャル氏によれば、アジズ・サンジャル氏も自身と同じようにアラビア語母語としているそうだ。
ところが、BBCの問いに立腹したアジズ・サンジャル氏には、トルコ民族主義・アタテュルク主義による強い祖国愛が見られ、ノーベル賞のメダルもアンカラのアタテュルク廟に寄進している。研究活動を続けて来た米国では、トルコ人留学生らのために「トルコの家」を設立したことも報じられていた。
サンジャル氏は8人兄弟であり、実兄にはトルコ軍の退役将軍もいるという。そして、やはり実兄であるタヒル・サンジャル氏が、ハベルテュルク放送のインタビューに答えていたのを聴くと、彼らの家族には、アタテュルク主義、あるいはトルコ民族主義の傾向があると感じられた。
一方、従弟のミトハト・サンジャル氏は「家族の中ではアラビア語を話している」と語っていた。確かに、アジズ・サンジャル氏のトルコ語は、少したどたどしい感じだった。次の言葉を考えている時、英語の話者が良くやるように「アーム(Uhm)」と繰り返したりするのである。いくら米国暮らしが長くても、母語トルコ語であれば、ああはならなかったような気がする。

しかし、大陸の国々では、母語などに基づくエスニックの民族性とアイデンティティーにおける民族が必ずしも一致しない場合は少なくないのかもしれない。例えば、ハンガリー独立運動の英雄コシュートは、父方スロバキア系・母方ドイツ系であり、叔父の中には熱心なスロバキア愛国者がいたものの、コシュート本人は自身をハンガリー人と認識していたという。
サンジャル氏の家系も、トルコ軍の将軍や反トルコ国家的な政党の活動家がいたりしてなかなか複雑だ。また、そのミトハト・サンジャル氏も活動しているのはクルド民族主義の政党であって、「母語アラビア語」の主張とは一貫性がないけれど、これもトルコでは珍しい例ではないだろう。エルドアン大統領も母方はグルジア系と言われ、エミネ夫人がアラブ系であることは良く知られている。

そのため、トルコではエスニックの出自による差別的な感情が全くと言って良いほど見られない。日本で「父は中国人、母は韓国人、私は日本人です」と自己紹介する人がいたら訝しげに見られてしまうかもしれないが、トルコで「父はボスニア人、母はグルジア人、私はトルコ人」と自己紹介する人がいても何ら不思議に思われない。そんな人は何処にでもいる。
このトルコが、民族問題で悩まさられるのは実に理不尽であると思う。トルコの人たちにしてみれば腹立たしい限りに違いない。「アラブ人なのか?」などと問われて立腹するのはサンジャル氏ばかりじゃないだろう。