メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

トルコ主義/オスマン語~トルコ語

イブラヒム・キラス氏は、カラル紙のコラムで数回にわたり、オスマン帝国の末期、国家を維持する為の思想として現れた「オスマン主義・イスラム主義・トルコ主義」について説明していた。
オスマン主義は、帝国内のキリスト教徒ら異教徒も平等に扱う思想だったが、バルカン半島で多くの領土を失い、異教徒の人口比率が激減するに連れて退潮して行く。イスラム主義とトルコ主義は、いずれもイスラム教徒を中心にした思想であり、お互いに類似する面もあれば、異なるところもあったという。
帝国の末期、最後に実権を握った皇帝とも言えるアブデュルハミト2世は、かなりトルコ主義的な傾向を見せていたらしい。ところが、一方で、アラビア語を帝国の公用語にする考えも持っていたそうである。
オスマン帝国の皇帝は、カリフも兼ねていたくらいだから、アラビア語の素養もあったのだろうか? 
皇帝の一族は、中央アジアの「原トルコ人」を父祖とする歴としたトルコ人であり、トルコ語を中心に成り立っていた「オスマン語」が彼らの母語だったと思われる。
それでも、アラビア語の影響を強く受けていた「オスマン語」は、アラビア文字で記されていたので、おそらく皇帝のような知識人ならば、アラビア語の読み書きもこなしていたに違いない。
また、歴代皇帝の母親は、その多くが外国からハーレムに連れて来られた女奴隷の出身と言われ、アブデュルハミト2世の母親も、アルメニア人、あるいはチェルケス人ではなかったかと伝えられている。そのため、「オスマン帝国の皇帝は、どのくらい“トルコ人”だったのか?」という声も聞かれる。
女奴隷から妃が選ばれたのは、国内有力者の娘を妃にした場合、皇帝の舅となった有力者が権勢を手にする恐れがあったため、という説もあるらしい。
ところで、日本の天皇に女系が認められて来なかったのは、同様に、天皇の実父が世俗的な権力者にならないようにしていたのではないか、ふとそんなことを考えてみたけれど、どうなんだろうか?
しかし、オスマン帝国公用語アラビア語になって、そのまま帝国の体制が維持されていたら、近代の歴史は大分違ったものになっていたはずである。
もちろん、実際の歴史では、崩壊したオスマン帝国の後を受けて誕生した「トルコ共和国」が、「オスマン語」からアラビア語ペルシャ語の要素を減らして純化させた「トルコ語」を公用語にして現在に至っている。
ここで気になるのは、トルコ共和国が誕生した頃、その領域内で、トルコ語母語としていた人たちは、どのくらいの割合で存在していたかということだ。
帝国の公用語は「オスマン語」だったから、少なくとも知識層は、「トルコ語」に不自由しなかっただろう。アルメニア文字で表記されたトルコ語の小説もあったという。帝都コンスタンティニエのアルメニア人らは、好んでトルコ語を使っていたらしい。
ルム(ギリシャ人)やアルメニア人ら異教徒たちが、習得し易いトルコ語をお互いの共通語として使っていた可能性も考えられる。
私は、現代のイスタンブールで、アルメニア人がルムとトルコ語を介さずに話そうとして、ギリシャ語の学習に取り組んでいた例を2つだけ知っているが、ギリシャ語は難解である所為か、いずれも、流暢に話せるほどではなかったようだ。
一人は、ルムの故マリアさんの友人だった故ガービおじさんである。おじさんは私に聞かれたくない話になると、急にギリシャ語を話し始めたけれど、その度に、マリアさんの娘のスザンナさんが、「ガービ! 貴方はこう言いたいわけ?」とトルコ語でその内容を繰り返すため、おじさんの陰謀はいつも露見してしまった。

 アルメニア語もかなり難しいそうである。アルメニア人の友人は「勉強しようなんて思わないほうがいい」と忠告してくれた。
そこへ行くと、トルコ語は、私でも何とか話せるようになったのだから、難解な言語ではあるはずがない。文法的な例外が、類を見ないほど少ない合理的な言語なので、全く異なるゲルマン語派系のドイツ人にとっても、それほど難しくはないらしい。
しかも、私如きが言うのも何だが、とても表現力の豊かな美しい言語じゃないだろうか。非常に民族意識の強いクルド人が、「トルコ語は使いやすくて素晴らしい」と忌々しそうに話していたのを思い出す。
オスマン帝国の末期から共和国の初期にかけて活躍したアブドゥッラ・ジェヴデトというクルド人の学者は、クルド人の啓蒙に努め、“クルディスタン向上協会”という組織に参加して、クルド語の会報を書いていた時期もあったが、その後、彼らと袂を分かち、結局は、トルコ民族主義的な共和国の創設事業に合流したという。
アブドゥッラ・ジェヴデトは、イスラム圏全域の西欧化、近代化を望んでいたと言われ、その為、トルコが比較的、イスラム圏では先進性を見せていたことから、「全てのイスラム教徒がトルコ語を学んで、物質的、精神的に豊かになるべきである」と主張していたそうである。