メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

トルコの多様性と苦悩

民選の市長ら28人の解任は、日本でも大きく報道されたようだ。28人の内、ギュレン教団との関わりが追及されているのは、AKPの3人とMHPの1人だけで、残りは全てPKKのテロ行為に加担したとされるクルド系の市長等である。
この市長らは、ギュレン教団のような秘密裡の活動によらず、昨年、自治を宣言して市域の周囲に塹壕を掘り、公然と中央政府へ戦いを挑んだりしたのだから、今まで解任されていなかったのが不思議なくらいだ。
しかし、解任した場合、彼らは欧米で「クルド人が弾圧された」と訴えるに違いない。彼らに投票したクルド人民衆が反発する恐れもあった。また、彼らの政治活動を完全に絶ってしまうと、対話の窓口がなくなり、和平プロセスの再開を難しくする、等々の理由により、なかなか解任に踏み切れなかったようである。
2013年の3月、元指導者のオジャラン氏が平和宣言を発表すると、PKKは暫くなりを潜めていたものの、その間に、着々と武器の補充や地雷の設置を進めていたという。
当時、南東部の軍部隊や警察には、ギュレン教団系の幹部が多数赴任しており、PKKの動きを見て見ぬふりしていたらしい。7月15日のクーデター以降、元来敵対していたギュレン教団とPKKの、こういった協力関係が徐々に明らかになってきたと言われている。
トルコは、IS、ギュレン教団、PKKと大きな三つのテロ組織と対峙しているが、IS以外の組織は、いずれも欧米から未だに支援されているのだから、その対応は極めて困難である。
日本には、韓国の反日キャンペーンぐらいで神経衰弱になってしまった人たちもいるけれど、日本国内でテロを企てる組織が、国会に議席を持っていて、何かと言えば、欧米に反日を訴える状況を想像してもらいたい。とても神経衰弱だけでは済まされないだろう。
この、何かと言えば「クルド人が弾圧された」と訴える人たちの中には、クルド語を全く話せない“トルコ人”も少なくないそうだ。北シリアのクルド人組織PYDとの連帯を公言して憚らないHDP副党首フィゲン・ユクセクダー氏もその一人であるという。
もっとも、「トルコ人」とは、「アメリカ人」と同様、エスニックに由来しない「国民」の概念に近いから、ユクセクダー氏が、「クルド人」なのか「トルコ人」なのか論じること自体間違っているかもしれない。
メフメット・シムシェク副首相のように、自らエスニック的にはクルド人であると言い、必要に応じて公の場でもクルド語を話す「トルコ人」もいれば、エスニック的には黒海地方のラズ人だったのではないかと言われるケマル・ピル氏(故人)のようなPKK創設メンバーの「クルド人」もいる。(黒海地方に生まれ、アンカラ大学で学んだピル氏は、クルド語を殆ど話せなかったらしい)
トルコの民族事情は、非常に錯綜しているうえ、二重国籍も当たり前に認められているので、「両親のルーツは何処だ?」とかいちいち詮索していたら、頭がこんがらがってしまうに違いない。(アメリカも同様だが・・・)
オスマン帝国の時代には、アレクサンドロス・カラトドリ(1833~1906)というギリシャ正教徒の外務大臣がいたそうだ。
当時、既にギリシャは独立していたけれど、カラトドリはクレタ島の知事も務めている。ギリシャ語が話せるから、却って都合が良かったのだろうか? オスマン帝国はとても懐の広い国家だったと思う。
さすがに、現在のトルコ共和国で、ごく少数しか残されていない異教徒の立場は、なんとも微妙であるような気がする。
AKP議員のマルカル・エサヤン氏、ジャーナリストのエティエン・マフチュプヤン氏といったキリスト教徒のアルメニア人も活躍しているが、先日亡くなったユダヤ人実業家のイスハック・アラトン氏(大手ゼネコン経営者)は、ギュレン教団との関連が取り沙汰される中で、なんとも寂しい最期を迎えてしまった。
アラトン氏の父親は、共和国が初期に重税を課すなどして異教徒を弾圧した際、税金を支払えずに強制労働の処分を受け、非常に苦しんだそうである。アラトン氏は実業家として成功を収め、トルコを代表する経済人となった後も、祖国に対して複雑な思いを懐き続けていたかもしれない。
西欧列強により、崩壊へ追い込まれたオスマン帝国は、結局、最後にイスラム教徒が団結して残された国土を守り抜き、トルコ共和国という疑似民族国家に生まれ変わる。そのため、新しい国家も、西欧に協力して自分たちを追い込んだ異教徒に対しては、複雑な思いがあっただろう。
アレクサンドロス・カラトドリが外務大臣として活躍できたのは、当時未だ、オスマン帝国皇帝の威光が揺るぎなかったからであり、オスマン帝国は、その背骨がしっかりしていたお陰で、華々しい多様性を維持していたような気がする。
例えば、戦前の日本も多民族国家であり、ある意味、現在とは比較にならないほど懐の広さを見せていた。

山本七平の評伝によると、洪思翊中将は、朝鮮独立の運動家と全く接触がなかったわけでもないらしい。敗戦を迎えた際、総督府が、独立運動家に政権移譲を打診していたというのも、なかなか懐の広さを示す話じゃないかと思う。
これもオスマン帝国と同様、皇室の威光とこれを支える士族階級が太い背骨を成していたからこそ可能だったのかもしれない、そんなことをふと考えて見たりした。
いずれにしたって、「多様性の象徴」を担ぎ出したら、それでほいと多様性の未来が開けてしまう短絡的な発想には驚く。もちろん、それをきっかけに少しずつでも何かが変わって行けば良いけれど・・・。
華々しい多様性に彩られたオスマン帝国の長い歴史、一度は自ら捨て去った多様性を回復しようと努めるトルコ共和国の苦悩、そして、もっと身近なところでは、大東亜共栄圏の理想を掲げ、懐を分不相応に広げたまま行き詰ってしまった私たちの歴史、何事もハッピーエンドのテレビドラマみたいには行きそうもないのだが・・・。