メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

アタテュルク~エルドアン大統領

1920年、オスマン帝国がセーヴル条約を締結すると、ムスタファ・ケマル(後のアタテュルク)を中心とする有志軍人らは、これに反対して救国戦争(または独立戦争)を戦い、西欧と新たにローザンヌ条約を締結、トルコ共和国という国民国家を樹立する。
セーヴル条約で、オスマン帝国は現在の南東部を放棄して西欧列強に委ねてしまったが、救国戦争によりトルコ共和国は南東部を取り戻した。そのため、アタテュルクは共和国の国是として「国土の不可分の統一」を掲げ、二度と国土の分割を許してはならないと命じたのである。
こうして見ると、当時はオスマン帝国が親西欧であり、救国戦争を勝利に導いたアタテュルクは反西欧だったと言えるかもしれない。
帝国の首都コンスタンティニイェ(イスタンブール)にはギリシャ人ら異教徒も多く、人々はかなり西欧的な生活を営んでいたようだが、アタテュルクに従って救国戦争を戦ったアナトリアの人々の多くは、イスラムの信仰に篤いムスリムではなかったかと言われている。
時は変わって2002年、ギュレン教団の協力を得て政権についたAKPは、EU加盟を目標に掲げる親欧米の政権として民主的な改革を押し進める。
クルド民族の問題に対しても、民主的な観点から取り組み、大幅な自治を認める州制度も検討課題に含めたりしたので、「いよいよトルコ共和国という国民国家も終焉を迎えるのか?」などと取り沙汰されたりした。
2010年頃から2013年頃にかけては、AKPとエルドアン首相を支持するリベラルな識者らの論説を読みながら、「何か大きな変革が達成されるかもしれない」と私も訳が分からないまま興奮していた。
しかし、その後、ギュレン教団との決裂、クルド問題の解決を目指した和平プロセスの挫折、そして、PKKによる武力闘争の再開を経て、状況は大きく変わって行く。
特に、2016年7月の“クーデター事件”以降、AKPとエルドアン大統領は、民族主義的で且つ国家主義的なMHPとの連帯を深めるようになり、「国民国家の根幹を揺るがす大きな変革」どころか、国民国家の守護者をもって任じるようになってしまい、多くのリベラルな識者を落胆させた。
もちろん、アタテュルクの掲げた国是「国土の不可分の統一」は何としても守り抜く決意に違いない。そのため、「不可分の統一」を脅かすクルド国家の成立は断固として阻止しなければならず、これがアメリカとの交渉におけるレッドラインになっている。
長びくアメリカとの関係悪化は、経済低迷の要因でもあり、今回の選挙でAKPが敗北した大都市には、多少“厭戦気分”的な雰囲気があったかもしれない。
例えば、『アメリカがそんなに望むなら、クルドなんてくれてやれば良いじゃないか』といった気分だけれど、2015年頃だったか、エルドアンを嫌う非常に西欧的なアタテュルク主義者の友人たちが、「アタテュルクにも間違いはあった。救国戦争でクルド人など救ってあげなくても良かった」と言い放ったのには驚いた。

では、他に何を救うための救国戦争だったのだろう? 救国戦争を戦わずに、親西欧のオスマン帝国のままで良かったということなのか?

また、やはりエルドアンを嫌う西欧的なアタテュルク主義者の友人と雑談していて、エルドアン首相が一時期熱心に取り組んでいた「ルムのイスタンブール帰還」を話題にしたところ、友人は「ルムの人たちがギリシャからイスタンブールに戻って来るのは良いねえ。クルドやアラブはもう来なくて良いよ」という感想を漏らしたのである。
ひょっとすると、現在、イスタンブールで西欧的な暮らしを営んでいる人たちには、オスマン帝国時代のコンスタンティニイェで、セーヴル条約に不都合を感じなかった人たちと共通するようなところがあるかもしれない。
しかし、そうなると、今のトルコでかつてのアタテュルクと同じ立ち位置にいるのは、エルドアン大統領とMHPのバフチェリ党首ということになってしまいそうである。
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