メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

選挙による民主主義の限界?

「米国では直接選挙によって国民が大統領を選ぶ」と言うけれど、その選択肢は共和党民主党の候補に限られているようだ。

候補者はそれぞれの党から様々な段階を経て選ばれるため、余りにも非常識だったり、「国家の機構」と対立したりするような人物が出て来る可能性はないと思われていた。ところが、そのシステムがトランプ氏の選出過程では巧く機能していなかったらしい。

何故そうなってしまったのか良く解らない。ひょっとすると、米国は大きな転換点に立たされていて、「国家機構」あるいは「深層国家」の中にも対立があり、その間隙を突いてトランプ氏が登場したのかもしれない。

トランプ氏の発想には今までにない新しさもあったように思えるけれど、補佐役を欠いたために迷走を続け、最後は何とも恐ろしい結末を迎えてしまったのだろうか? 

一方、かつて議院内閣制をとっていたトルコでは、多数の政党が競い合い、国民の選択肢も多かった。

しかし、軍部・司法・官僚機構による所謂「深層国家」の意向に沿わない政党が選挙に勝って政権を得た場合、軍部・司法があからさまに介入して政権から引きずり下ろすという荒っぽいことをやっていた。

また、今でも「得票率が10%に満たない政党は議席を得られない」という規定により、一定の規模を持った政党でなければ議席が得られないという仕組みになっている。

これには「弱小政党の乱立を防ぐ」という名目が掲げられているものの、実際のところは「反動的なイスラム主義の政党」や「分離独立を企図するクルド民族主義の政党」などが議席を確保できないようにするためだったと言われている。

ところが、2002年の選挙では、反動的なイスラム主義者と目されていたエルドアン氏のAKPが第一党に躍り出たうえ、いくつかの政党が10%の得票率を下回って議席を得られなかった所為で、第一党とは言え僅か34%の得票率に過ぎなかったAKPが66%の議席を得て、単独政権を樹立してしまったのである。

しかし、以下のように、ジャーナリストのエロル・ミュテルジムレル氏が暴露したところによれば、既に1999年の段階で、一部の「国家機構」に近い人物らは、エルドアン氏を次期首相として担ぎ出そうとしていたらしい。

ミュテルジムレル氏は関わった人物の名を一人一人挙げているくらいだから、おそらくこれは事実と見て良いのではないかと思う。

そもそも「深層国家」などと呼ばれる機構が何としてもAKPの単独政権を防ぎたかったのであれば、選挙前から各政党が一つにまとまるよう圧力を加えるといった手段を講じることができたはずである。

あの「2002年の選挙」は余りにも不自然なところが多かったような気もする。

上記の駄文で、私は30年来関わって来たトルコ社会の変化について愚見を述べてみたけれど、深層国家の軍高官や官僚らもこの変化を当然見極めていたに違いない。

AKP・エルドアン政権の出現は、一部の軍高官・官僚らにとって、あくまでも既定路線の一つに過ぎなかった可能性もあるのではないだろうか?

トルコの軍高官は、社会の各層や地方の事情に精通しているという。

軍には社会の各層から徴兵された若者が集まっているし、軍高官は様々な地方で任務につき昇進を果たして来るからだ。士官学校は有給で学べるため、高官自身が貧しい農村の生まれである例も少なくないらしい。

2015年にノーベル化学賞を受賞したアジズ・サンジャル氏の実兄はトルコ軍の将官だったそうだが、南東部マルディン県出身のサンジャル氏兄弟は、おそらくアラビア語クルド語も話せただろう。従弟のミトハト・サンジャル氏は「家族の中ではアラビア語を話している」と語っていた。

このミトハト・サンジャル氏は、反体制的なクルド民族主義政党HDPの議員である。実兄のトルコ軍将官も、当然、クルド民族の問題に精通していたのではないかと思う。

軍にはクルド人の多い地域から徴兵されてくる若者も多かったため、その扱いにも気を使っていたらしい。

2010年頃だったか、兵役を済ませた友人は、「部隊の中でクルド人を揶揄するようなこと言ったら厳しく罰せられる」と話していた。

軍高官らはこういったクルド民族の問題ばかりでなく、イスラム的な保守層が近代化の中でどのように変化してきたのかも良く見極めていたはずである。

軍高官に限らず、官僚にも同様のことが言えるだろう。

内務省の官僚は、まず各地方でカイマカムと呼ばれる行政の首長を歴任してから本省へ戻って昇進を遂げるそうだ。

日本もそうだろうけれど、おそらく歴史のある発展した国家であれば、何処にでも同様のシステムがあり、国家を運営する人たちは、そういったシステムによって社会の実情を把握できるように鍛えられているのだと思う。

そのため、民選の議員に依らずとも、ある程度は民意を行政に反映させることができる。中国の行政もこうして進められているような気がする。

マスコミや人々におもねる議員たちに任せるより、遥かに効率が良く理性的な判断が下せるかもしれない。

もっとも、これは余りにも危うい考え方であるに違いない。権力の暴走を許してしまう恐れは非常に高いだろう。

しかし、現在の選挙のシステムが最適であるとは全く考えられない。「選挙による民主主義の制度」を一旦否定して、白紙の状態から新しい「選挙による民主主義の制度」を創造しなければならないように思えるのだが・・・。