メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

恋人たちの日の妄想~漱石の「三四郎」

週末のソープランド通いを正直に打ち明けてしまった友人。彼は、相手の女性が、初対面の印象として、自分に好意を懐いてくれたかもしれないとは全く考えなかったのだろうか?
もしも、彼女が胸をときめかしていたならば、友人の返答は、失礼を通り越して、非常に残酷だ。彼女の心は酷く傷ついたに違いない。友人は体育会系の好漢だったから、その可能性は充分にあったと思う。
私も初対面の女性に一目惚れというのは、しょっちゅうやっているけれど、相手に同様の心の動きがあったと感じたことは一度もなかった。お互いの間に「電気が走った」と感じていたら、さすがに下ネタは披露しなかったはずである。
長い時間が経過した後で、その女性の言動などを繰り返し考えている内に、「ひょっとすると・・」なんて思ったことは何度かあるが、その時は、既に実際のところを確かめようもないほど距離は開いてしまっている。
ある友人は、恋愛というものを、次のように説明してくれた。
「恋は鯉と同じなんだ。まな板の上に乗せたら直ぐに捌いて食べてしまわなければならない。お前のように、腕組みしながら考え込んでいると、鯉は逃げるか、腐っちまうだけだ」
しかし、こういう男は、世間に存外少なくないような気もする。例えば、夏目漱石の「三四郎」の主人公も、その典型だったのではないかと思う。
三四郎は、大学の池の端で、はじめて美禰子と出会うが、この時既に、三四郎は、『女の黒眼の動く刹那を意識した』らしい・・・。おそらく、お互いの間に電気は走っていたのだろう。
次は、野々宮君の妹「よし子」を見舞った後に、病院の廊下で行き会う場面である。
美禰子は三四郎を呼び止めて、「よし子」の病室を尋ねる。三四郎は道順を教えてしまってから、『案内すれば良かった』と悔やむ。そして、美禰子の結んでいたリボンは、野々宮君が兼安で買ったリボンであると思い出して衝撃を受ける。
今、こうして書き記しながら、高校時代に初めて読んだ時の興奮が蘇って来てしまうほど、この場面は、私にとって実にエキサイティングだった。
三度目に、広田先生の家で遭遇して、三四郎が『あなたには御目にかかりましたな』と訊くと、美禰子は『はあ、いつか病院で・・・』と答える。さらに『まだある』と言う三四郎に、『それから池の端で・・・』と続けるのである。
直感の働く男なら、最初の「池の端」でアタックを開始したかもしれない。三度目の広田先生の家では、如何に鈍感な男でも対応を考えるはずだが、三四郎は無為にやり過ごし、結局、何も起こらないまま物語は終わってしまう。「仏の顔も三度まで」とはこのことではないのか?
なにしろ、三四郎は、小説冒頭の名古屋の場面で、宿を共にした女が、裸になって風呂場へ入って来ても逃げ出す始末で、別れ際に、『あなたはよっぽど度胸のない方ですね』と笑われてしまった男なのだ。
なんて言いながら、私がこんな風に考え始めたのは、この10年ぐらいの話であり、それまでは、新潮文庫版の巻末の解説に記されていた「無意識の偽善」云々にも影響されて、「女の偽善は恐ろしい」などと間抜けな観念を育て上げていた。
夏目漱石については、やはり「恋愛が解っていなかった」と指摘する人が少なくないらしい。そのため、同性愛者だったという説もあるそうだが、「愛嬌がない」とこきおろしていた奥さんとの間に7人もの子供を作った漱石が“女好き”じゃなかったと考えるのは、かなり無理があるだろう。
三四郎も美禰子に恋い焦がれながら、「恋愛」が解らないために、逡巡するばかりで一歩も踏み出すことができない。私のような読者は、そこに何とも言えない感動を覚えてしまうのである。
三四郎」~「それから」と続く三部作の最後を飾る「門」では、友人の妻を奪ってしまうという大胆な物語が展開されるけれど、宗助が不倫の関係に陥って行く過程は、詳細に記されていない。漱石は書きたくても書けなかったのかもしれない。
私はこの小説で、宗助が、友人安井の妻である御米と初めて会って言葉を交わす場面に痺れてしまった。
宗助は、安井夫婦と何処かへ行く為、安井の家を彼らと一緒に出るが、安井は、鍵を預けて来ると言って、隣の家に行く。家の外で二人きりになった宗助と御米は、安井を待つ短い間に、『二言、三言、尋常な口を利いた』のである。
そして、宗助は、その当たり前な挨拶の言葉をずっと忘れずに覚えていたという。私も胸がときめいた女性たちと交わした何でもない会話であるとか、最初の印象等々を幾通りも記憶に留めているから、このくだりを読みながら、痺れるほど興奮してしまった。
しかし、どうなんだろう? 胸がときめいただけでは終わらず、二人の間に熱烈な恋愛が展開されていた場合、男は最初に交わした何でもない挨拶の言葉を、後生大事に覚えているものだろうか?