メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

ゲイ・プライド

6月の末、タクシムでデモ行進していた“ゲイ・プライド”という同性愛者のグループに、警官隊が放水車等で介入して、デモ行進を中止させてしまう事件があった。

“ゲイ・プライド”のデモ行進は、数年に亘って何の問題もなく挙行されていたのに、今年はラマダンと重なったことで、少し状況が違っていたという。

警察は、「一部の過激なイスラム主義者が妨害行為を企てているという情報も寄せられたので、衝突を未然に防ぐために介入せざるを得なかった」などと弁明していたらしいけれど、何だか後から思いついた言い訳のようにしか聞こえない。

トルコでは、同性愛者に対する偏見が、かなり激しい。“ホモ”や“ゲイ”は侮辱用語に数えられているのではないかと思う。トルコ語には“イブネ”というもっときついスラングもある。

宗教的な信仰が殆どなくても偏見の強い人はいるし、その逆もないわけじゃない。また、侮辱の対象になるのは、受けの側だけで、攻撃するほうは何とも思われていないようである。これに気がついた時は随分驚いた。

 まあ、こんな感じだから、介入という愚挙に出た警察だけを責めても仕方ないような気もする。

この事件に関連して、6月30日付けのアクシャム紙で、ギュライ・ギョクテュルク氏が、とても興味深い考察を記していた。

ギョクテュルク氏は、まず警察の愚挙を厳しく非難してから、次のように問うている。

「同性愛者たちは、長年に亘って、同性愛がヘテロセクシャルと同じくらいノーマルな性選択であると、私たちを説得しようとしている。しかし、ノーマルなことから誇りを感じるのは少しおかしくないだろうか? 皆さんは、あるヘテロセクシャルが“ヘテロセクシャル・プライド”というイベントを開催したのを聞いたことがあるだろうか?・・・」

氏は、これに続いて、同性愛者の人たちが多数派のヘテロセクシャルから受けた侮辱にも言及しながら、ああいったイベントが、そういった問題の解決には繋がらないのではないかと考察しているのである。

この考察には私も大いに頷かされた。トルコでは、革新・左派の中に、同性愛をあたかも近代化の証しであるかのように語る人たちがいて、どうにも気になっていた。そういう言動は、保守派の反発を煽るだけのように思えたからだ。

しかし、日本でも、最近は同性婚が議論されているらしいけれど、あれはどうなんだろう?

キリスト教イスラム教などの一神教の世界では、“結婚”に「神の祝福を受ける」といった意味合いがあるから、「同性愛の人たちは神の祝福を受けられないのか?」という議論になってしまうようだが、日本の場合、結婚なんてものは、二つの家族や社会の了承を確認するために行なっているだけのような気がする。

もっとも、その社会の承認を得たいという議論なのかもしれないが、私には良く解らない。それほど重要なことだろうか?

 

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