メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

「ゲズィ公園騒動」~ブラジル~「天安門事件」

トルコでは、この「ゲズィ公園騒動」を米国によって焚きつけられた騒乱と見做す“陰謀論”が盛んに論じられていたけれど、今、その後の展開を振り返って見ると、確かに、まったく根も葉もない“陰謀論”としては片づけられないような気もしてくる。

そもそも、事件が勃発するや、瞬く間に各国のメディアがイスタンブールに集結して、過剰な報道を繰り広げた所にも、なんだか不自然な雰囲気が感じられた。『この程度のデモ騒ぎが、何故、これほど大々的に報じられているのだろう?』と訝しげに思えたものである。

また、「ゲズィ公園騒動」と時を同じくして、ブラジルでも騒乱が勃発していたようだが、トルコとブラジルはその3年前(2010年)、米国の意向に反して、イランで「テヘラン合意」に署名していた。

ブラジルでは、その後、ルセフ大統領が2016年8月に弾劾裁判で罷免されている。これもトルコの「クーデター事件」とほぼ同時期の出来事である。

一昨日(6月4日)は、1989年の「天安門事件」の日だった。当時、私は中国に非常な失望を感じてしまったけれど、今考えてみると、あの「民主化運動」にも米国から扇動された要素はなかったのかという疑念が生じてしまう。

その僅か2年後にはソビエトが崩壊している。制圧のやり方に問題はあったかもしれないが、鄧小平の決断は間違っていなかったと思う。

もしも、民主化運動を容認していたら、中国は分割されて米国の意のままになっていたのではないだろうか?


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ゲズィ公園騒動



 

 

ゲズィ公園騒動デモ隊の不甲斐なさ?

エルドアン大統領とAKP政権は、発足した2002年~2009年頃まで明らかに親欧米の政権と見做されていた。

それで、EU加盟交渉にも熱心に取り組んでいたけれど、反対派は「EUはトルコ軍の弱体化を狙っている」と主張していた。中には「EUの要求を全て認めたら、トルコは去勢されてしまう」なんて比喩的に言う人もいた。

この伝に従えば、現在、欧米の理不尽な要求は撥ねつけてしまうエルドアン大統領のトルコは、去勢の危機を乗り越え、雄々しく「男」を主張しているかのようだ。

アヤソフィアの再モスク化やタクシムのモスクにも、そういった雄々しい男の主張が見えるような気もする。

その所為か、断固反米を貫いて来た共産主義者のドウ・ペリンチェク氏もこれには敢えて反対していないらしい。共産主義といったイデオロギーも宗教と同様、非常に雄々しいものであるかもしれない。

もちろん、ここで言う「男」には、「男女」の性別は含まれていない。日本でも、かつての激しい女性活動家たちは非常に雄々しかったのだろう。

私が1988年に韓国で目撃した民主化闘争の担い手たちも、男女の区別なく皆雄々しかった。そもそも、デモに加わる女性たちは化粧などしていなかったように思う。

今、正義連(挺対協)の問題で苦境に立たされている尹美香氏も、あの頃はなかなか頑張っていたに違いない。

この1988年当時の韓国民主化闘争に比べたら、2013年のトルコのゲズィ公園騒動は何とも頼りなかった。

末尾に添付した動画と写真でも明らかなように、女性たちは結構おしゃれしてデモに参加している。あれでは戦えないだろう。

もっとも、彼らはトルコの西欧化を望んでイスラム化に反対しているのだから、去勢されてしまうことに不満はないのかもしれない。

しかし、西成の壁に落書きされていた「男でありたい」まではともかく、「男で死にたい」が国の政治に反映されたら困るだろう。

幸い何事にも慎重なエルドアン大統領は、トルコ軍やドウ・ペリンチェク氏ほどには雄々しくも猛々しくもなさそうだから、何処かで巧くバランスを取るのではないかと思うけれど・・・。

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ゲズィ公園騒動の背景

2013年6月の騒動の舞台となったゲズィ公園の辺りには、オスマン帝国時代に軍の兵舎として設営された建物があったらしい。

この建物は、1940年にアンリ・プロストというフランス人建築家の都市計画にもとづいて取り壊され、その跡地がゲズィ公園になっていたそうである。

その後、2011年に旧兵舎を再建する計画がイスタンブール市議会によって承認されたものの、方々から反対の声が上がっていた。

2013年の5月、いよいよ再建工事が強行されることになると、イスタンブール地方裁判所からも差し止めの判決が下されるなどして、反対運動は一気に燃え上がり、6月1日にはデモ隊が公園を占拠するに至った。

このゲズィ公園は、当時のエルドアン首相らがデモ側に一定の譲歩を見せて騒動の収拾を図ったため、今でも公園として残っている。

しかし、先週の金曜日(5月28日)には、タクシム広場を挟んで公園の向かい側で2017年から建設が進められていたモスクが落成し、エルドアン大統領が自らテープカットを行った。

モスクの建築が計画されたのも、旧兵舎再建と同様、2011年のことだから、各々の計画には関連があるように思われる。旧兵舎再建にあれだけ反対の声が上がったのは、この辺りに要因が潜んでいたかもしれない。

反対派の多くは、エルドアン政権による「イスラム化」を危ぶむ政教分離主義者だった。

公園を占拠して立て籠もっていた人たちの中には、「イスラム化で飲酒が禁じられてしまう」と言いながら、メディアの取材に応えてビールをがぶ飲みする若者もいた。

私は騒動が続いていた6月8日の午後、ベイオールの辺りを歩いてみたけれど、メイハーネ(居酒屋)が立ち並ぶネヴィザーデ小路では、未だ明るい4時~5時頃なのに多くの人たちが酒を飲んでいた。あれも「イスラム化」に反対する姿勢を示すためだったのかもしれない。

非常に興味深く思えたのは、何処からか大音量でトルコの国歌(独立行進曲)が響き渡ると、皆が起立して唱和し始めたシーンである。

政教分離主義者らは、「アタテュルクのトルコ共和国エルドアンが破壊しようとしている」と主張して、共和国を守るために反エルドアンを貫いていたのだから、共和国の国歌を唱和しても何ら不思議なことではないが、その歌詞は良く考えてみれば、居酒屋で酒を飲みながら歌うものではないように思える。

何故なら、歌詞には殉教者やアザーンといったイスラム的な言葉が度々現れるからだ。

作詞は、エルドアン大統領も好んでその一節を引用したりする詩人メフメト・アキフ・エルソイによるもので、イスラム的な言葉は現れても、最後まで「トルコ」や「政教分離」といった言葉は出てこない。オスマン帝国が存続していれば、その国歌としても立派に通用するような内容である。

国歌に限らず、共和国の新月旗もオスマン帝国の国旗とほぼ同じデザインのように見える。そもそも、新月イスラムを象徴しているのではないか。

オスマン帝国の時代、帝都コンスタンティニイェは、人口の半数近くをキリスト教徒やユダヤ教徒が占めていたものの、共和国のイスタンブールは99%がイスラム教徒の都市になってしまった。

トルコ共和国は「イスラム化」も何も、本来、イスラム教徒の国として出発したのではないだろうか? 

しかし、「イスラム教徒の国」と言っても、それは現代の世界に適応できるイスラム教であり、その近代化の流れはオスマン帝国の時代に既に始まっている。

政教分離は近代化と民主主義の根幹を成す最も重要な要素で、今後もこれが揺るがされることはないと思う。

この20年の間に進められてきたのは、それまでの脱宗教的な政教分離ではなく、共和国の現実に合わせた「政教分離」への転換と言っても良いのではないか?

そのため、新しいモスクの建設などは暫く続くかもしれないが、ネヴィザーデ小路のメイハーネ(居酒屋)に客足が絶えることもないだろう。

以下に添付した写真は、2013年6月8日にネヴィザーデ小路で撮影したもので、この直後に国歌が響き渡り始めたのではないかと思う。

そういえば、背景に写っている「イムロズ」というメイハーネは、記憶に誤りがなければ、私が2017年の4月に泥酔するまで飲んでしまった店である。

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2013年6月1日の「ゲズィ公園騒動」

今日(6月1日)であの「ゲズィ公園騒動」から8年が経過したことになる。

私は4年前の6月1日にも「トルコの“激動の4年間”」という駄文を書いて、「ゲズィ公園騒動」から過ぎた4年間を振り返ってみた。

その中で、“激動の4年間”の要因がアフメット・ダヴトオール元首相による独自外交にあったのではないかという、トルコの識者らの論調も紹介したけれど、現在、同様に論じる人はもう殆どいないのではないかと思う。

ダヴトオール元首相は「全方位外交」を提唱し、それまでの対欧米追従を改めようとしたと言われている。

ところが、今のトルコ外交を見たら、これを批判しているダヴトオール元首相のほうが遥かに対欧米協調主義者ではないかと思われてしまうほどだ。

エルドアン大統領のAKP政権は2002年の発足当時、かなり親欧米的な政権と見做されていて、トルコ国内では、その外交姿勢を激しく非難されていた。

それが2009年にダヴトオール元首相が外相に就任した辺りから少しずつ変化し始めたように論じられている。

果たして、トルコの外交はこれからどう変わっていくのだろうか?

*以下は、2013年の6月1日に、ゲズィ公園前で私が撮影した動画である。背景の公園が廃墟のように見えるのは工事中だったからで、デモ隊と警官隊の衝突自体は、88年に韓国ソウルで見た民主化運動に比べたら遥かに穏やかに感じられた。

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東山魁夷展

昨日は、夜勤明けに神戸博物館で東山魁夷展を見てきた。

こういった美術の展覧会に足を運ぶことは殆どなかった。音楽のコンサートなどを聴きに行くこともない。

芸術を大勢の人たちと一緒に鑑賞するのは、ちょっと気が引けるように感じてしまう。

情けないことに、一人で音楽を聴きながら、おいおい泣いてしまったりすることがあるけれど、まさかコンサート会場でそれは出来ないだろう。

絵画などを観て、それほど感情が高まることはないが、やはり絵画集のような本を借りてきて一人で鑑賞したほうが落ち着いて雰囲気を味わうことが出来ると思う。

そのため、展覧会は20年ぐらい前にソウルで「オノ・ヨーコ展」を観た時以来だったかもしれない。

あの時は、何故、「オノ・ヨーコ展」に入ってみたのか良く覚えていない。ソウルで「オノ・ヨーコ展」という組み合わせは面白いと勝手に思っていたような気もする。

展示されていたのは、オノ・ヨーコ氏の前衛的な作品の数々で、はっきり言って、何の意味があってどういう味わいがあるのかさっぱり解らなかった。

何だか人を揶揄っているのではないかとしか思えないふざけた展示作品もあり、ひょっとしたら、この展覧会は、『人々が難しい顔して作品に見入っているのを隠してカメラでオノ・ヨーコ氏自身が観察して楽しむ』という趣向じゃないのかなんて勘ぐってみたりした。

もちろん、昨日の「東山魁夷展」に、そんな邪推を働かせる必要はない。難しいことなど考える間もなく『美しい』と感じられる作品ばかりだった。

東山魁夷の展覧会には、小学生の頃に連れて行ってもらった記憶がある。北欧の森林を描いた作品が印象に残っているけれど、その規模の大きさに圧倒された。あれは小さな絵画集では解らなくなってしまう。

それで昨日、わざわざ足を運んでみたのである。コロナ騒ぎで来場者も少ないのではないかと思っていたが、かなり多くの人たちが訪れていたので驚くと同時に少しほっとした。

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「チャルクシュ(Çalıkuşu)」を歩きたい!

上記の駄文を書くにあたって、本山第二小学校の校舎が当時のものであるのか調べるために、ネットで検索していたら、「谷崎潤一郎の『細雪』を歩く」というもの凄いサイトを発見した。

「芦屋編」に始まり、「西宮編」「阪神大水害編」「京都編」「大阪編」「東京銀座編」「東京・その他編」「神戸編」という8編が、この「谷崎潤一郎の『細雪』を歩く」に掲載されている。

阪神大水害編」では、谷崎潤一郎の「回顧」にある「・・あの辺で実際に水害に遭った学校の生徒の作文をあとで沢山見せてもらったので、それが参考になっている」という記述から、その「生徒の作文」の存在まで調べ上げ、「細雪」の本文と「生徒の作文」の比較が行われている。

まったく、これほどの「『細雪』を歩く」があるのに、私の駄文にも「『細雪』を歩く」という表題を使ってしまったのは甚だ申し訳ないように感じた。

まあ、言い訳をさせてもらえるなら、「細雪」は読めば誰もが歩きたくなってしまう小説なのではないかと思う。

もちろん、読んで歩きたくなる小説は他にもたくさんあるだろう。しかしながら、如何せん読書量の少ない私には、直ぐに思い浮かぶ小説もそれほどない。

真っ先に思い浮かんだのは、「チャルクシュ(Çalıkuşu)」というトルコ語の小説である。

この「チャルクシュ(Çalıkuşu)」を歩こうとしたら、イスタンブール~ブルサ~イズミルと回らなければならない。私にこの先、そういう時間的・経済的な余裕が生じることはあるだろうか? 

その前に、「チャルクシュ(Çalıkuşu)」をもう一度読み、可能ならば日本語に訳してみたいという大きな夢を叶えてみたくなるが、それは時間的・経済的にもっと難しい。大きな夢の前に呆然と佇んでしまいそうな感じがする。

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本山第二小学校の正門

 

「細雪」~トルコ料理~「汾酒」

一昨日は、住吉川から蘆屋の辺り一帯を歩き、蘆屋川(阪急)から300mほどの所にある、トルコ人の旧友が営む料理店に寄った。「細雪」の家族の家は、そのもう少し先に位置していたことになっている。

旧友の料理店で昼を食べてから、また阪神の蘆屋まで歩いた。「細雪」では、貞之助が先ず自分の娘悦子を迎えに、洪水の迫る中、阪神蘆屋駅近くの小学校へ向かうのである。

「貞之助が小学校へ行って帰って来る迄の時間は、いつもなら三十分も懸らない所なのであるが、その日は一時間以上も懸ったことであろう。」と記されているけれど、確かに10分~15分ぐらいの道のりだったと思う。9歳の悦子が毎日通うには結構な距離であるかもしれない。

そのあとは、阪神電車で元町へ出た。南京街の食材店で「汾酒」を仕入れるためだ。

先日、西淀川で買って来た高粱酒を飲んで、『癖のあるチーズとかに良く合うかもしれない』と思って、汾酒が頭に浮かんだのである。

昨日、さっそくブルーチーズで試してみたところ、まさしくぴったりだった。というより、久しぶりに飲んだ汾酒に魅了されてしまった。

とはいえ、飲んだのはショットグラスに一杯だけで、それも週1~2回に留めるつもりだ。

考えてみると、汾酒は「久しぶり」どころか、38年ぶりだったような気もする。

38年前、信州松本で醸造所が経営していた「酒のスーパー」といった店で購入して飲み、「美味い」と思ったものの、東京に帰ってきてから飲んだ「茅台酒」がもっと美味くて、以来、中国の白酒を飲むなら、それは茅台酒になっていた。

ところが、トルコから帰国して、福岡にいた頃、茅台酒を探し求めてその値段にぶったまげてしまった。3~4万円である。

なんでも、中国で贈答品として茅台酒の人気が高まり、買い占めが横行して値段が吊り上げられてしまったらしい。

収賄で逮捕された共産党幹部の自宅で発見された数千本だか数万本が廃棄処分にされ一遍にぶちまけられたなんてニュースもあった。茅台酒は数滴でももの凄い芳香が漂う。そんな数をぶちまけたら、いったいどんな芳香が広がったのだろう? 

そのため、最近は偽物の茅台酒が市場に出回っているそうだ。しかし、偽物と言っても、貴州の茅台醸造されていなければ「茅台酒」と認められないので、中には品質はそれほど劣らない他地方産の「偽・茅台酒」もあるらしい。

それなら、その「偽・茅台酒」を「何々産」と明記して、適当な価格で流通させれば良いのではないか。

ウイスキー」も全てがスコットランドアイルランドで生産されているわけじゃない。日本で生産されたウイスキーの評価も高いという。

茅台酒も日本で作ったら、結構良いものが出来ると思う。 

中国で美味いものは料理に限らない、酒も茶も皆美味い。何故、茅台酒汾酒ウイスキーのように広まらなかったのか不思議なくらいだ。

ウイスキーがあれほど広まったのは、アングロサクソンが暴力で世界を侵略し制覇したのと無関係ではないかもしれない。ウイスキーには暴力と帝国主義の香りも漂っているのではないだろうか?

そういえば、昨日の汾酒は、平和と文明の香りに満ちていたような気がする。

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