メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

「細雪」を歩く・大水害

細雪」を読み返して、その舞台となった街を歩いてみようと思ったのは、昭和13年の阪神大水害の場面が非常に印象に残っていたからだ。

巻末の谷崎潤一郎自身の「回顧」によれば、実際の経験を書いたのではないかと思った読者が少なくなかったという。迫真の描写がそう思わせてしまったに違いない。

しかし、「回顧」には、以下のように経緯が記されている。

「・・・私のいたところは絶対安全なところで、実は私は少しも恐い思いはしていないのだ。水が出た二三時間後に近所を歩いてみた見聞と、あの辺で実際に水害に遭った学校の生徒の作文をあとで沢山見せてもらったので、それが参考になっている程度である。」

私も20年ほど前に読んで、小説の筋立てさえ大分忘れてしまっていたのに、あの場面だけは結構良く覚えていた。

そのため、勤務地が三宮になって以来、阪神阪急電車を利用する機会があると、『洪水で妙子が板倉に助けられたのは蘆屋だろうか、夙川だろうか?』なんて思いながら、再読して舞台となった街を歩いてみることにしたのである。

そして、昨日、ようやくその蘆屋川から住吉川にかけての一帯を実地に見て歩くことが出来た。

まず、妙子が板倉に助けられたのは、蘆屋でも夙川でもなく住吉川の東岸の辺りである。20年前は、夙川・蘆屋・住吉川の位置関係さえ良く解らないまま読んでいたのだから、曖昧な記憶しか残っていなかったのは仕方ないと思う。

妙子を探して、蘆屋から国鉄の線路上を歩いてきた義兄の貞之助は本山駅(現在の摂津本山)の少し先で線路上に取り残されていた列車の中に避難する。

周囲は既に海のようになっていたけれど、北側に本山第二小学校の校舎が見える。妙子が通う洋裁学院と隣接する甲南女学校はその直ぐ南側に位置しているが、水勢が激しく、とてもそこまで行けない。その後、列車の状態が一層危うくなると同時に南側の水位が下がったため、貞之助らは列車を降りて甲南女学校へ逃げ込む・・・。

昨日は、上記にように記されていたのを手掛かりにして、現在も同じ場所にあるという本山第二小学校を探すことから始めた。まあ、探すと言っても、今はスマホにグーグルマップという便利なものがあるので、わけもなく見つかってしまう。

本山第二小学校の校舎はなかなか歴史を感じさせる立派なもので、ウイキペディアには「昭和8年落成」という記述も見られるから、一部は「細雪」の時代のものであるかもしれない。

本山第二小学校から線路をくぐって南側に出てみたが、果たして甲南女学校がどの辺にあったのか良く解らない。米軍の空襲で焼失し、戦後は蘆屋の方に移転したそうだ。

『どの辺だろうか?』と思いながら歩いて国道まで出ると、洒落た雰囲気のあるカフェがあったので、コーヒーを飲んで一休みして、お店の方に尋ねてみることにした。『こういう趣のある店をやっていらっしゃる方なら御存知かもしれない』と思ったのだ。

これは実に大正解だった。コーヒーは美味しかったし、甲南女学校の場所も解った。線路の直ぐ南側にある本山南中学校がその跡地であり、周囲の一角には、甲南女子学園発祥の地を記念する石碑も立っているという。

お店の前のバス停は、僅か15年ほど前まで「甲南女子学園前」という名称だったそうだ。タクシーの運転手さんが間違えてしまうことも多くて、ようやく名称が変更されたらしい。こんなお話まで伺うことが出来て、とても嬉しかった。これが昨日の最大の収穫だったと思う。

もちろん、本山南中学校の周囲をもう一度歩いて、その石碑も写真に収めて来ている。

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本山第二小学校の校舎

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本山第二小学校の南側のJRの線路。貞之助が避難した列車はこの辺りに停まっていたと思われる。

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甲南女子学園発祥の地の石碑





今朝の秋:「多少の前後はあっても皆死ぬんだ」

YouTubeに「今朝の秋」がアップされていたので、冒頭の主題曲でも聴いてみようかと思ったら、結局、最後まで観てしまった。

1987年の制作であるけれど、私は98年頃の再放送で観たのではないかと思う。

その後も2010年頃だったか、YouTubeに10回ぐらいに分けてアップされていたのを録画して何度か観た。おそらく、今回観たのは4~5回目になるだろう。

何度観ても、そのたびに感動を新たにしている。笠智衆杉村春子のそれぞれの人生の重みを感じてしまうような演技が凄い。主題曲も素晴らしい。

主題曲は2度目に観終わった後も耳に残っていて、もう一度クレジットを見て確認した。作曲は武満徹だった。制作者の並々ならぬ意気込みが感じられるような気もする。

作監督は山田太一で、この作品は小津安二郎へのオマージュとして制作されたらしい。

男が出来た妻に去られてしまうという設定は「東京慕色」を思わせる。「今朝の秋」の父(笠智衆)と子(杉浦直樹)は、なんと二代にわたって妻に去られてしまうのである。

「東京慕色」では、笠智衆演じる銀行員が京城(ソウル)出向中に、妻が男を作って出て行ったことになっていたけれど、この「今朝の秋」でも、癌で余命3か月という主人公(杉浦直樹)の子息はソウル支社へ赴任したばかりという。

時代背景を考えると、「今朝の秋」の主人公の父(笠智衆)は、「東京慕色」の銀行員とほぼ同じ年齢になるから、「東京慕色」のその後というような意識はあったのかもしれない。

それにしても、山田太一は「岸辺のアルバム」でも妻に浮気されてしまう男(杉浦直樹)を描いているし、本人も女心が解らずに苦労した人なのだろうか?

数多の美人女優を見出しながら、未婚のまま60歳で亡くなった小津安二郎は何となく恋愛に不器用な人だったような気がするけれど・・・。

「今朝の秋」で癌におかされた53歳の主人公は、病名を告知されていないものの、30年近く前に男を作って出て行った母親(杉村春子)が、突然、お見舞いに現れたり、蓼科から上京して来た父親(笠智衆)がなかなか帰らなかったり、男が出来て別れ話も進行中の妻(倍賞美津子)が「別れたくない」と言い出したりしたため、『もう長くないんじゃないか?』と思い始める。

その後、父は子に事実を告げ、病院から蓼科へ連れ出してしまう。蓼科で父と子が夏の終わりの美しい庭の木々を眺めながら交わす会話は、劇中で最も大きな山場の一つであると思う。

父「案外、わしのほうが(死は)早いかもしれん」

子「そんなことはないけれど・・・」

父「多少の前後はあっても皆死ぬんだ」

子「そうですねえ、皆死ぬんだよねえ」

父「(だから)特別のような顔をするな」

子「言うなあ、ずけずけ。しかしねえ、こっちは未だ50代ですよ。お父さん80じゃない。少しは特別な顔するよ」

この場面でも、父を演じる笠智衆は威厳と慈愛に満ちた表情を崩すことはなく、涙一つ流さない。そもそも笠智衆には、小津安二郎監督から「泣く演技」を要求されても「明治の男は泣かない」と言って断ったというエピソードが伝えられているくらいだ。

おそらく、「明治の男」は泣きもしなければ、余命を知らされても特別な顔など見せないまま死んで行くのだろう。

笠智衆は「今朝の秋」の1987年に83歳、93年に88歳で亡くなっている。遺作は亡くなる3か月前に公開された「男はつらいよ 寅次郎の青春」だったそうだ。実際、特別な顔などする間もなく、慌ただしく世を去って行ったのではないかと思う。

*訂正:「東京慕情」✖→「東京暮色」

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イスラエルとパレスチナ

イスラエルパレスチナの問題、双方の主張は大きく異なっていて、現地を見たことがない私には是非の判断も下しようがない。

パレスチナの人々が暮らしていた地域をイスラエルが力ずくで奪って来たのは確かなようだけれど、世界の歴史は全てそれの繰り返しだったのではないかと思う。

弱かった所為で故地を追われたユダヤの人々は、二千年にわたって世界各地で流浪の生活を送りながら経済力等を蓄え、その力で故地に戻って来て、かつての領域を奪い返そうとしている。このように考えることが出来るかもしれない。

オスマン帝国も力ずくでコンスタンティノープルを征服し、ギリシャ正教徒からアヤソフィアを奪い取り、イスラム教のモスクに改装した。

その後、オスマン帝国は弱体化して崩壊に追い込まれ、トルコ共和国として存続を図ったものの、力及ばずアヤソフィアは博物館になったが、力を取り戻すと再びモスクにして礼拝を執り行うようになった・・・。

世界の何処でも歴史はこうして成り立って来たに違いない。

そして、現在、その世界の歴史は、覇権を握っている欧米の視点から語られるようになってしまった。

しかし、そのために欧米は自らを厳しく鍛え上げて来たのではないかと思う。自分を甘やかして鍛え損なった弱者が文句を言っても始まらない。

例えば、イスラエルでは、女性も兵役に就いて国防に努めるが、出生率は高く、中東の中でも抜きん出ている。女性たちは「祖国のために子供を産む」と言うらしい。この国が地域の覇権を握る強者となったのは当然のことだろう。

もちろん、覇権を握る強者も、鍛錬を怠ったり、力を過信して無謀な行動に出たりすれば、たちまち躓いてしまうかもしれない。

今のイスラエルは正しくその力を過信した状態であると指摘するトルコの識者もいる。果たしてどうなるだろうか?


 

 

辛くて美味い!

一昨日、モスクを後にしてから、ぶらぶらと阪神難波線の福駅まで歩いた。この辺りには、パキスタンばかりでなく様々な国から来た人たちが暮らしているのだろう。ベトナムや中国の物産を扱う店や飲食店が所々にあった。

福駅の前では、独特な香辛料の良い匂いに誘われて、吸い込まれるように中国食品の販売店に立ち入ってしまった。

店では40歳ぐらいの女性が大きなボウルに入れた挽肉を捏ねている最中で、どうやら良い匂いはそこから漂っていたようだ。

訊くと、「豚マン作っているんですよ~♪」と陽気な明るい声が返ってきた。黒龍江省の出身であるという。

もともと良い匂いに吸い込まれただけで、何か買うつもりもなかったけれど、少し話して、とても楽しい気分になったので、カップ麺と高粱酒の小さな瓶を買うことにした。

カップ麺の図柄は見るからに辛そうで、「辛いよ~大丈夫かなあ?」と心配してもらったが、今、食べてみたら確かに辛かった。それも唐辛子の辛さじゃなくて花椒の強烈な辛さである。しかし、非常に美味かった。4つぐらいまとめて買ってくれば良かった。

この店は夕方になると簡単な食事も出来るらしい。良い匂いを漂わせていた豚マンも食べてみたいし、近いうちにまた来ようかと思う。西淀川はなかなか楽しい街だ。 

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ラマダン明けの祝祭にパレスチナを思う

一昨日は、ラマダン明けの祝祭に合わせて、大阪西淀川区にあるモスク(大阪マスジド)へ出かけてみた。

その辺りは、パキスタンから来た人たちが多数居住しているため「大阪のパキスタン」と呼ばれているらしい。

昼の1時頃に着いたら未だ礼拝中だったので、周囲を20分ぐらい歩いて戻って来ると、礼拝を済ませた人たちがモスクの前に集まって談笑していた。その多くはパキスタン人のようだ。

セーラムアレイキュム」とトルコ風に訛ったイスラムの言葉で挨拶したところ、皆にこやかに「アライクムサラーム」と挨拶を返してくれた。

それから礼拝堂の中を見せてもらったけれど、案内してくれたのは日本人ムスリムの方だった。その方の説明によると「アッサラーム・アライクム」は「貴方たちの上にアッラーが・・」という意味になるから、イスラム教徒ではない私が使うのは適切と言えないそうである。

トルコでも「ムスリム同士の挨拶に使う言葉だから・・・」という話は聞いたことがあった。

とはいえ、6年近く暮らしたイエニドアンの街では、私がイスラム教徒じゃないことは皆知っているのに「セーラムアレイキュム! マコト!」と向こうから先に挨拶されたりしていた。

また、「セーラムアレイキュム」の意味は、「貴方たちに平和がありますように」であると教わってきた。パキスタンでは解釈が異なるのだろうか?

モスクの前のパキスタン料理屋さんで会ったパキスタンの人たちにも「セーラムアレイキュム」と挨拶したら、やはり皆にこやかに受け入れてくれたけれど・・・。

しかし、現在の中東は、「貴方たちに平和がありますように」という挨拶が虚しくなるような状況らしい。報道によれば、イスラエルパレスチナの一般市民に対しても激しい攻撃を加えているという。

1991年、トルコ語教室のあったエーゲ大学には、パレスチナ人の留学生が多かった。パレスチナでは大学へ行くことが難しかったからに違いない。彼らは今どうしているだろう?

2010年頃、イスタンブール市内にある中堅財閥系の工場を訪れたところ、工場長はトルコ国籍のパレスチナ人だった。多分、トルコへ留学して大学を卒業、その企業に就職したのではないかと思う。

当時、40歳ぐらいに見えたから、1991年にはトルコの何処かの大学で学んでいたかもしれない。

パレスチナ人で母語アラビア語はもちろん英語も話せたので、エジプトとバングラデシュの工場に出向していたこともあったという。

彼はエジプトとバングラデシュの印象について、「バングラデシュの人たちの“のんびり”には人の良さが感じられるし、仕事はちゃんとやってくれる。でも、エジプト人の“のんびり”は怠けているだけだ」なんて話していた。

パレスチナで生まれ育ったアラブ人の彼にとって、エジプトの人たちは“同胞”と言っても良かったはずだが、既に「トルコ人」になりきっているような雰囲気だった。

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ドイツの民族主義的なロマンティズム?

2017年の3月、トルコのニュース専門局の討論番組で、ある識者が次のように語っていた。

「EUに合理性をもたらしていたのはイギリスだった。そのイギリスが抜けてしまった後には、ドイツの民族主義的なロマンティズムだけが残った。これから、EUは大変なことになる・・・」

民族主義的なロマンティズム」と言われても、私には良く解らないが、歴史をざっと眺めただけでも、ドイツという国には、私たち日本人が想像もつかない強い精神と熱情が潜んでいるのではないかと思ってしまう。

例えば、第一次世界大戦で叩きのめされてから、僅か21年後に、また華々しく世界へ挑みかかっている。

全てをナチスヒトラーの所為にしているけれど、多くの人々が、『よし、もう一度戦ってやろう』と決意を固めていたように思える。そして、ドイツの軍人たちは最後まで勇敢に戦った。

100万~200万の人口しかない前近代的な社会ならいざ知らず、ドイツほどの歴史と規模を持つ社会が、「1人の独裁者によって侵略戦争を引き起こした」という物語を何の疑いもなく信じるのは難しい。

全体主義的な体制を招いてしまった社会の体質であるとか、人々を戦争に駆り立てた“熱情”といった要因はなかったのだろうか? 

私は、ベートーヴェンブラームス交響曲をいくつか聴いただけでも、その熱情に痺れてしまう。しかも、決して乱れていない、非常に秩序立った熱情である。あれはちょっと恐いような気もする。

また、ドイツは戦前の残虐行為を深く反省しているのに、日本は反省が足りないと良く言われているけれど、これはどうだろうか?

日本は、内鮮一体や大東亜共栄圏で失敗したため、戦後はやたらと内向きになってしまった。ある右派の政治家は、戦後になって次のように述べたそうだ。

「今まで、朝鮮人とか訳の解らない連中と一緒にやって来ましたが、これからは我々日本人だけです。力を合わせて頑張りましょう」。

朝鮮の人たちにしてみれば、「一緒にやらせて下さい」なんて一言も頼んでないので、こんな妄言を吐かれては堪らない。一緒になろうとしたのは、もちろん日本の方だから、これは、「戦前、我々のやったことは全て間違いでした」と自らの過ちを認めた発言ではないかと思う。

実際、それ以後も外国人を受け入れたりすることに対して、とても慎重になっている。これはやはり、かなり反省していたということかもしれない。

一方でドイツは、戦前、ユダヤ人やロマ民族といった異分子をまとめて排除しようとして大騒ぎになったのに、戦後の未だ50年代に、早々とトルコ人という異分子を招き入れている。

(50年代に移民が始まった時点では、トルコ人が押しかけて行ったわけじゃなくて、ドイツ側が労働力として招聘していた。)

過去の反省に基づいた不安といったものは、なかったのだろうか?

まあ、トルコ人の移民が社会の禍となって困ったことになれば、ドイツの人たちは、我々のように引っ込み思案になって不安を募らせる前に、また勇気を持って積極的に解決を模索するのだろうけれど・・・・。


 

世界の歴史は大きな変化を迎えるのだろうか?

90年代の初め頃だったと思う。ロッテの創業者である辛格浩重光武雄)氏がインタビューに答えた記事を雑誌か何かで読んだ。

当時の韓国には、様々な面でもの凄い勢いが感じられたため、「あと10年~20年もすれば日韓の立場は逆転してしまうのではないか?」という声が日韓の双方から聞かれたりした。

ところが、辛格浩氏は「私が生きている間に韓国が日本に追いつくことはない」と語り、それを否定していた。当時、70歳の氏は自分の寿命を90年と想定して『この20年の間に・・・』という意味で語っていたのだろうか?

しかし、98歳と異例の長寿を全うした辛格浩氏が亡くなったのは昨年のことであり、既に韓国は「一人当たりのGDP」で日本に追いつこうとしていた。計算の仕方もあるようだけれど、現在では、日本が韓国に追い越されてしまったらしい。辛格浩氏はこの変化をどう見ていただろう?

歴史に訪れる大きな変化、私たちの世代ならば、まずは1991年のソビエト崩壊を思い出す。

その10年前、21歳だった私はソビエトという国家がなくなってしまうなんて夢にも思っていなかった。果たして、これから10~20年の間には、どういう大きな変化が待ち構えているのか?

そういった未来予測として、「中国がGDPで米国を抜き去り、経済的に世界最大の国家になる」というのがあるけれど、これは既に「驚くべき変化」とは言えなくなっているような気がする。

「米国の覇権は失墜し、世界の覇権国は中国になる」というのもあるが、これはどうだろうか?

軍事力や科学技術力の面では、まだまだ米国が優位であると説く人も多い。そもそも、中国自身が世界の覇権国となる未来を描いているのかどうか未だ何とも言えないらしい。

しかし、米国が徐々に覇権を縮小させて行くのではないかという予測を唱える人は少なくないようだ。トルコの識者の中にも、そういう主張は見られる。世界は多極化して行くというのである。

そのためか、トルコ国内の米軍基地を閉鎖すべきといった議論も盛んになっているけれど、トルコ国内の米軍基地には核弾頭も配備されているそうで、なかなか簡単には行かないらしい。

トルコで反米が強くなって来ているのは確かであるものの、米国との関係が非常に重要であるという事実は変わっていない。NATO離脱も未だ現実的な議論とは言い難いように思える。

トルコ政府は、ギュレン教団PKKといったテロ組織に対する支援を止めるよう米国と粘り強く交渉を続けて行くし、同様にロシア・中国とも交渉する。これはトルコが米国と疎遠になるとか、親ロシア、あるいは親中国になることを意味していないだろう。

しかし、個人的には『私が生きている間に米国の覇権は失墜するかもしれない』なんて考えたりすると非常に興奮が高まって来る。『ついに、あの悪魔の帝国が・・・』などと期待してしまうのである。