メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

「細雪」を歩く・マンボウ

昨日は西宮に出て、御前浜から夙川の辺りを歩き回って来た。目的は、阪神西宮駅近くの「マンボウ」とその先にある「一本松」だった。

マンボウ」とは、「細雪」の記述によれば、当時、関西の一部の人たちが使っていた言葉で、短いトンネルのようなものを意味しており、語源はオランダ語の「マンプウ」だそうである。

細雪」では、札場筋付近の省線電車の下を通るマンボウから出た所にある阪神国道のバス停で、お春が妙子の恋人である奥畑と出会った。奥畑はマンボウを通って向こう側にある「一本松」の近くに住んでいると言う。

このマンボウは今でもJR線の下を抜ける通路となっていて健在である。名所として知られる一本松も残っている。

細雪」に、「人が辛うじて立って歩けるくらいの隧道」と記されていたけれど、実際、身長166cmの私がようやく立って歩けたほどの高さで、少し背の高い人であれば頭をぶつけてしまいそうなトンネルだった。

長さは30mぐらいあったと思う。そのため、真ん中の辺りは結構うす暗くなっている。

『妙子と奥畑が、この暗がりの中を連れ立って過ぎたのか』などと連想しながら歩くと、なかなか艶めかしい気分になるかもしれない。

もちろん、今では誰も「マンボウ」とは言っていないだろう。「マンボウ」と言ったら、あの大きな魚になってしまうはずである。

しかし、最近では、「コロナ蔓延防止策」だか何だかを略して「マンボウ」と言ったりしているらしい。

昨日の「マンボウ」は通り抜けるのに1分と掛からなかったが、こちらの「マンボウ」という長いトンネルは、いったいいつになったら抜けることができるのか? そして、長いトンネルを抜けた向こうには、果たして何が待ち構えているのか? 

細雪」で、妙子は一本松近くの奥畑の家にいて赤痢に罹り、生死の境を彷徨うことになってしまうけれど、そんな悲劇が待ち構えていないことを祈るばかりだ。

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阪神国道の南側から見た「マンボウ」。

お春は、今の串カツ屋の前辺りでバスを待っていて、奥畑に出会ったのだろうか?

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これが、その「マンボウ」。

向こうから歩いて来る女性は、もちろん妙子じゃないけれど・・・。

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一本松

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昨日は天気も良かったので、御前浜は結構賑わっていた。

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梅ヶ枝湯

一昨日、山陽電鉄高砂駅近くにある梅ヶ枝湯で初めて湯に浸かって来た。

今でも薪で湯を沸かしている超レトロな湯として知られているけれど、うちから行こうと思ったら、自転車で20分はかかる。

そのため、冬は帰って来るまでに湯冷めしてしまう、夏は大汗をかいてしまうで、今ぐらいの季節しか湯に浸かれるチャンスはないと思う。

梅ヶ枝湯の開業は昭和18年というから戦前のことである。50年前、私が子供の頃に通っていた銭湯より、もっとレトロな感じがした。

内部の撮影は許可されていないが、脱衣場も実に渋い雰囲気があった。ロッカーというか、衣類を入れる木製の棚にも骨董的な価値がありそうだ。

*以下のブログには脱衣場の写真が掲載されている。

しかし、考えてみると、50年以上前の銭湯の脱衣場にはロッカーなど無く、大きな竹の籠に衣類を入れていたと記憶している。

ロッカーはいつ頃から使われるようになったのだろう? 中学生になった頃は既にロッカーがあったような気もするから、50年ぐらい前だろうか?

薪や残材を燃料に使っていた銭湯は35年ほど前にもかなり残っていたはずである。その頃、産業廃棄物のダンプで、残材ばかりを積んだ場合、最寄りの銭湯に下ろしたことが何度かあった。運転手には受け入れ可能な銭湯のリストが配られていた。

梅が枝湯の周囲も大分寂れていて、レトロな雰囲気が漂っている。コロナ騒ぎの影響はあるけれど、騒ぎが始まる前に来た時も、シャッターを閉ざしている所が多かったと思う。高砂駅の駅前からして時代を感じさせるものがある。

かつては、JR沿線よりも、山陽電鉄の沿線が栄えていたそうだが、今や全くその面影はない。

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「労働者の祝祭」

《2014年5月1日付け記事の再録》

今日(2014年5月1日)はメーデーで、工場も休日だった。この10年来、殆ど仕事のないフリーの通訳だか何だかで過ごして来たため、気がついていなかったけれど、トルコでは、2008年からメーデーが「労働者の祝祭」として公休日になっていたらしい。
2月の初旬、2週間ほど通っていた工場に、3月末より、また2ヶ月間の契約で出勤している。工場へは、以下でもお伝えした「送迎ミニバス」に乗って行く。

 送迎の同乗者たちとは、もうすっかり仲良くなったが、この業務も後3週間ほどで終了してしまう。送迎に限らず、工場で顔を合わせる人たちとは、皆親しくなったし、工場自体にも愛着を感じるようになったから、何だか残念な気もする。
オフィス棟で私たちが使っている部屋をこまめに掃除してくれる雑用係のイスメットさんとは、特に親しくなった。いつも冗談を言い合っている。私と同年輩のイスメットさんは、「お前良いよなあ。通訳とか言って、喋っているだけで金もらえて。俺も中国行って通訳やりたいよ」なんて言う。
いくら「日本人」と繰り返しても、直ぐ「チン(中国)」になってしまうので、もう諦めてしまった。イスメットさん、東洋人は皆中国人だと思っているらしい。
「中国に行って通訳って、何語の通訳やるの? トルコ語以外に知っている言葉あるの?」と訊いたら、「俺、ザザ語なら良く解るよ。教えてやろうか?」と身を乗り出してきた。
ザザ語は、クルド語(クルマンチ語)に近い、ペルシャ語系統の言語と言われ、アナトリア東部のトゥンジェリ県、エルズィンジャン県、エラズー県などに話者が多いそうだ。

トゥンジェリ県、エルズィンジャン県には、イスラムの異端派されるアレヴィー派も多いと聞く。イスメットさんはエルズィンジャン県の出身である。

私は、送迎に乗る所で、毎朝サバー紙を買って来る。ここの売店は、他にスポーツ紙ぐらいしか置いていない。

イスメットさんは、私がサバー紙を読んでいるのを見ると、「それは泥棒エルドアンの新聞だぜ。そんなの読んじゃ駄目だよ。ソズジュ紙を読まなきゃ」と文句を言う。
「ソズジュ紙? イスメットさんは左翼なの?」
「そうだよ。俺は左翼でアタテュルク主義者だよ」
「そして、アレヴィー派でしょ?」
「おっ、良く解っているなあ」
「ジェムエヴィ(アレヴィー派の礼拝施設)とか行くんですか?」
「もちろん。今度、お前も連れて行ってやろうか? サルガーズィで俺の家から近いんだ」
このジェムエヴィの話で大分盛り上がった。実際、都合がつけば、一緒に訪れて見たい。
トルコでは、“左翼”がインテリだけのものにはなっていないようだ。アレヴィー派の民衆の中には、イスメットさんのように“左翼”を名乗る人が多い。でも、イスメットさんは、社会主義共産主義をどう理解しているのだろう? おそらく、以下の話に出て来る「ペンキ屋のおじさん」のような感じじゃないかと思う。

イスメットさんに、「最近、ジェムエヴィも増えたよね。やっぱり、あれはエルドアンのAKPになってから増え始めたんじゃないの?」と水を向けたところ、「違う! 違う! そんなのは大嘘だ!」と真っ赤になって否定してから言った。「ジェムエヴィは、オザルの時代に増えたんだよ」
これはなかなか興味深い話だと思った。イスラムの復興に尽力したオザル氏を、かつて左翼的なアレヴィー派の人たちは目の敵にしていたけれど、最近はその“功績”も認めるようになったのだろうか? 
さて、今日は、昨日イスメットさんが、「明日メーデーに行こう! タクシムに行くんだ。サルガーズィから送迎バスも出るよ」と話していたので、朝、ぶらぶらサルガーズィまで歩いて行ったけれど、ちょっと遅かったらしい。サルガーズィの街角はがらんとして、のんびりした休日の朝の雰囲気が漂っていた。

*パソコンを買い替えたため、保存していた写真を整理していたところ、2006年のメーデーに撮影した思われる写真が出てきたので、その中からいくつかを以下に添付します。

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「鮒寿司」と「くさや」

昨日、京都側から、ケーブルカーとロープウェイで比叡山に上がり、坂本側へ降りて、浜大津に出た。

延暦寺の根本中堂が改装中だったため、昨日の小旅行の目的は、比叡山よりも浜大津で「鮒寿司」を買い求めることになった。

鮒寿司」は、24~5年前、大阪に居た頃、一度食べてみたけれど、強烈な風味を期待していたのにそうでもなかったことぐらいしか印象に残っていない。何処で購入したのかも良く覚えていない。お土産屋さんのような所だった記憶がある。いずれにせよ、それほど有名な店のものではなかったと思う。

昨日は、「元祖」と称される浜大津の坂本屋まで行って来た。まずは、店の佇まいに歴史を感じさせる趣があり、それだけでも来た甲斐があった。

その鮒寿司は、昨晩、久しぶりに日本酒を飲みながら食べてみたけれど、やはり強烈な風味は感じられなかった。普通に美味しいと思っただけである。少し「強烈」の期待値が高過ぎたのかもしれない。

それは、先日、三宮で購入したチーズも同様だった。期待したほど臭くはなかった。

匂いの強烈さで、「くさや」以上の食べ物は、未だかつて経験がない。スウェーデンの「シュールストレミング」というニシンの缶詰が凄いそうだから、あとはそれを試してみるぐらいしかないだろう。

しかし、「シュールストレミング」も鮒寿司のような「酸っぱい系」の匂いらしいので、案外、期待外れに終わる可能性もある。

「くさや」は、その匂いの種類からして異なるのではないだろうか? あれは全く食欲をそそるような匂いじゃない。本当に臭い。でも、食べると驚くほど美味しい。実に不思議な食べ物だと思う。

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「弱肉強食の世界」(ジェノサイド)

《2017年1月12日付け記事の再録》

昔、「カスター将軍の第7騎兵隊」をモチーフにしたアメリカ制作のテレビドラマが日本でも放映されていた。1960年生まれの私が、小学校3~4年生の頃に観ていた記憶があるから、おそらく60年代の後半だったのではないかと思う。
19世紀の西部で、勇敢なカスター将軍が、非文明的なインディアンと壮絶な戦いを繰り返し、最後に英雄的な死を遂げるといったストーリーの西部劇である。
さすがに、ネイティブ・アメリカンを蔑視した内容に、その後は、アメリカ国内でも批判が高まり、カスター将軍が正義の英雄として描かれていたのは、いくらなんでも、当時までだったらしい。
しかし、小学生の私は、何の分別もないまま、カスター将軍の活躍に拍手喝采を送っていた。お陰で、私の弱い頭に刻み込まれたインディアンの恐ろしいイメージを払拭するのも、結構時間が掛かっている。
「文明的なキリスト教徒の白人を捕まえて、火あぶりにしてしまう恐ろしい野蛮人」という風な感じだが、これは今考えて見ると、なんだか「IS」のイメージそのものである。
こういったメディアを使ったプロパガンダによる「イメージ戦略」みたいなものを、欧米は手を変え品を変え繰り返してきたような気がする。

日本も、かつては欧米で悪辣なイメージを喧伝されて、大分苦労したようだ。技術力も経済力もないトルコは、今でもやられっ放しである。
「IS」が、イスラムのイメージになってしまっているのも、トルコの人たちにとっては、遣り切れないだろう。「ISなどイスラムではない」とトルコ人がいくら主張しても、欧米のメディアには全く通用しない。結局、自分たちを慰めるだけの言葉になってしまう。
とはいえ、例えば、「統一教会」をキリスト教宗派の中に数えている欧米人は、いったいどのくらいいるのか? 日本人の多くも、オウム真理教について問われたら、「あんなものは仏教じゃありません」と答えるに違いない。
やはり、自分たちの主張を通用させようと思ったら、それが如何に正しかったとしても、それなりの“力”を持っていなければ、「負け犬の遠吠え」と見做されるだけではないだろうか?
弱肉強食の西部で滅ぼされてしまったインディアンは、歳月を経て、やっと憐憫の情をもって語られるようになった。これが彼らにとって唯一の慰めであるかもしれない。


 

人の寿命

どういう映画で観たのか忘れたけれど、チャールトン・ヘストンの演じる男が安楽死を望んで横たわり、ベートーヴェン交響曲「田園」を聴いているシーンがあった。

私なら、そのような場面で、果たしてどんな曲を聴きたくなるだろうか? なんて、またつまらないことを考えてしまった。

モーツァルトのレクイエムと言いたいところだが、あの冒頭3曲では余りにも激しすぎる。

マーラー交響曲5番の「官能のアダージェット」? 死んでも死にきれないような気がする。

シューベルト交響曲「ザ・グレート」の1楽章~2楽章が良さそうだ。この曲を聴くと、いつもロマンティックな気分に浸れる。私の「青春の歌」だと思う。

シューベルトは「ザ・グレート」を作曲した翌年に31歳で亡くなったという。「歌曲王」などと呼ばれているけれど、本当はベートーヴェンのような交響曲作家を目指していたのではないだろうか?

ベートーヴェンは、その年齢(30歳)で交響曲第1番を作曲したばかりだった。モーツァルトも38番「プラハ」を未だ作曲していなかった。

シューベルトは余りにも早く亡くなったため、不当に低く評価されてきたように思われてならない。

しかし、「シューベルトが60歳まで生きていたらどうなっていたか?」なんて考えてもしょうがない。私たちが知っているのは「31歳で死んだシューベルト」であって、60歳まで生きていたら、それは別の人になっていただろう。

私たちにとっては、「31歳で死んだシューベルト」が尊いのだと思う。

merhaba-ajansi.hatenablog.com

 

「細雪」を歩く・旧居留地~三宮

今日は「細雪」の主な舞台の一つである「旧居留地」から三宮の辺りを歩いて回った。

まずは旧居留地近くのユーハイムバウムクーヘンを食べてみた。凄く甘いのかと思っていたが、そうでもなかった。その時代の嗜好に合わせながら、甘味を抑えてきたのかもしれない。

細雪」では、妙子がユーハイムでお茶を飲んでいる時に、「キリレンコのお婆ちゃん」が娘のカタリナと共に姿を現したりしている。

このキリレンコの一家はロシア人であるけれど、「細雪」には隣家のドイツ人の家族の話が度々出てくる。ユーハイムの創業者もドイツ人だった。

細雪」に記述はないが、当時、チョコレートで有名なモロゾフゴンチャロフの店も神戸にあったはずである。

その頃は、各々の店でドイツ人やロシア人の経営者や職人さんの姿を見ることもあったのではないだろうか? 街角を「キリレンコのお婆ちゃん」のようなロシアの老婦人が颯爽と歩いていたかもしれない。

今はユーハイムでも店内に飾られている写真から当時の様子を偲ぶことができるに過ぎない。現在、ドイツ人の方がここで働いているわけでもないようである。

神戸は戦前のほうが遥かにコスモポリタンだったに違いない。戦前の日本は多民族国家と言って良かっただろうから、神戸に限らず、コスモポリタンな雰囲気は様々な所で感じられたようにも思える。

細雪」の隣家のドイツ人家族の子供たちが通っていたドイツ人学校も神戸の北野にあったという。

このドイツ人家族の話では、長男のペータアが電車遊びで阪神電車の車掌の真似をする場面がとても面白い。

「次は御影、次は御影でございます。・・・皆さん、この電車は御影から蘆屋までは停りません。住吉、魚崎、青木、深江の方々はお乗り換えを願います」

なんだか、今と殆ど変わらないような気がする。現在は特急も魚崎に停車しているところが違うけれど・・・。

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