メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

ゲズィ公園騒動の背景

2013年6月の騒動の舞台となったゲズィ公園の辺りには、オスマン帝国時代に軍の兵舎として設営された建物があったらしい。

この建物は、1940年にアンリ・プロストというフランス人建築家の都市計画にもとづいて取り壊され、その跡地がゲズィ公園になっていたそうである。

その後、2011年に旧兵舎を再建する計画がイスタンブール市議会によって承認されたものの、方々から反対の声が上がっていた。

2013年の5月、いよいよ再建工事が強行されることになると、イスタンブール地方裁判所からも差し止めの判決が下されるなどして、反対運動は一気に燃え上がり、6月1日にはデモ隊が公園を占拠するに至った。

このゲズィ公園は、当時のエルドアン首相らがデモ側に一定の譲歩を見せて騒動の収拾を図ったため、今でも公園として残っている。

しかし、先週の金曜日(5月28日)には、タクシム広場を挟んで公園の向かい側で2017年から建設が進められていたモスクが落成し、エルドアン大統領が自らテープカットを行った。

モスクの建築が計画されたのも、旧兵舎再建と同様、2011年のことだから、各々の計画には関連があるように思われる。旧兵舎再建にあれだけ反対の声が上がったのは、この辺りに要因が潜んでいたかもしれない。

反対派の多くは、エルドアン政権による「イスラム化」を危ぶむ政教分離主義者だった。

公園を占拠して立て籠もっていた人たちの中には、「イスラム化で飲酒が禁じられてしまう」と言いながら、メディアの取材に応えてビールをがぶ飲みする若者もいた。

私は騒動が続いていた6月8日の午後、ベイオールの辺りを歩いてみたけれど、メイハーネ(居酒屋)が立ち並ぶネヴィザーデ小路では、未だ明るい4時~5時頃なのに多くの人たちが酒を飲んでいた。あれも「イスラム化」に反対する姿勢を示すためだったのかもしれない。

非常に興味深く思えたのは、何処からか大音量でトルコの国歌(独立行進曲)が響き渡ると、皆が起立して唱和し始めたシーンである。

政教分離主義者らは、「アタテュルクのトルコ共和国エルドアンが破壊しようとしている」と主張して、共和国を守るために反エルドアンを貫いていたのだから、共和国の国歌を唱和しても何ら不思議なことではないが、その歌詞は良く考えてみれば、居酒屋で酒を飲みながら歌うものではないように思える。

何故なら、歌詞には殉教者やアザーンといったイスラム的な言葉が度々現れるからだ。

作詞は、エルドアン大統領も好んでその一節を引用したりする詩人メフメト・アキフ・エルソイによるもので、イスラム的な言葉は現れても、最後まで「トルコ」や「政教分離」といった言葉は出てこない。オスマン帝国が存続していれば、その国歌としても立派に通用するような内容である。

国歌に限らず、共和国の新月旗もオスマン帝国の国旗とほぼ同じデザインのように見える。そもそも、新月イスラムを象徴しているのではないか。

オスマン帝国の時代、帝都コンスタンティニイェは、人口の半数近くをキリスト教徒やユダヤ教徒が占めていたものの、共和国のイスタンブールは99%がイスラム教徒の都市になってしまった。

トルコ共和国は「イスラム化」も何も、本来、イスラム教徒の国として出発したのではないだろうか? 

しかし、「イスラム教徒の国」と言っても、それは現代の世界に適応できるイスラム教であり、その近代化の流れはオスマン帝国の時代に既に始まっている。

政教分離は近代化と民主主義の根幹を成す最も重要な要素で、今後もこれが揺るがされることはないと思う。

この20年の間に進められてきたのは、それまでの脱宗教的な政教分離ではなく、共和国の現実に合わせた「政教分離」への転換と言っても良いのではないか?

そのため、新しいモスクの建設などは暫く続くかもしれないが、ネヴィザーデ小路のメイハーネ(居酒屋)に客足が絶えることもないだろう。

以下に添付した写真は、2013年6月8日にネヴィザーデ小路で撮影したもので、この直後に国歌が響き渡り始めたのではないかと思う。

そういえば、背景に写っている「イムロズ」というメイハーネは、記憶に誤りがなければ、私が2017年の4月に泥酔するまで飲んでしまった店である。

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