メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

新年の読書「クオ・ワディス」

年末年始の休暇を利用して、以前から読んでみようと思いながら、なかなか手がつかなかった「クオ・ワディス」(全三巻:岩波文庫)を読んだ。

4日までの休暇中に全て読み終わらせるつもりでいたけれど、そう巧くは行かなかった。

しかし、下巻は、昨日、ほぼ一気に読み下している。読み始めたら止まらない激動の物語だった。

これは、皇帝ネロの時代のローマ帝国を舞台にした物語で、貴族の青年ウィニキウスと人質として帝国に囚われているリギ族の王女リギアの愛を中心に展開されている。

表題の「クオ・ワディス」は、大火を経てキリスト教徒に対する弾圧が激しさを増したローマから一旦逃れて行く使徒ペテロの前に突然姿を現したキリストへ、ペテロが「クオ・ワディス? ドミネ!(何処へ行かれるのですか? 主よ!)」と問うた言葉に由来する。

キリストは「おまえが私の民を捨てるなら、私はローマへ行ってもう一度十字架にかかろう」と答え、ペテロは感動してローマへ戻って行くのである。

私は、おそらく50年以上前、小学校5年生ぐらいの頃、少年少女文学全集といったシリーズの中にあった「何処へ行く」という子供向けの訳で、この物語を読んでいる。

当時から非常に強く印象に残っていたため、『いつか完訳で読んで見なければ・・』と思いつつ、なんと50年が過ぎてしまったというわけだ。

子供向けの訳で、どのような省略が施されていたのか全く思い出せないが、牡牛の角に括り付けられて円形闘技場へ引きずり出されたリギアを従者の巨人ウルススが牡牛を倒して救い出す件は良く覚えていたので、結末を承知しながら、闘技場の場面を読み進めていた。

クオ・ワディス? ドミネ!(何処へ行かれるのですか? 主よ!)」の場面もそうである。数ページ前から、『いよいよだぞ』と待ち構えていたのに、いざその場面になったら、まただらしなく涙腺をゆるくしてしまった。

50余年前も、おそらくこの場面で涙したのではないかと思うが、小学校5年生の少年が流した涙と還暦過ぎたクソ爺の流した涙には、自ずと違いがあるように感じられる。

まあ、小学校5年生の私も「文学少年」といった形容が全く似つかわしくない「騒々しいクソ餓鬼」だったわけだが・・・

ところで、この駄文をキリスト教徒の友人らが読んだりすると、『50年経ってまた感動を新たにしたのなら、これを機会に洗礼を受けて下さい』なんて言い出すかもしれない。それに対する弁明を、物語の中で探してみた。

主人公の青年ウィニキウスの叔父であるペトロニウスは、皇帝ネロの寵臣でありながら、決して常識と理性、人間としての愛情を失わない好漢として描かれている。

使徒パウロの教えにも熱心に耳を傾けるものの、キリスト教を受け入れようとはしない。「貴方たちの教えは正しいと思うが、俺の性に合わない」と言うのである。

私も友人らに「洗礼」を勧められたら、小さな声で「御説御尤もですが、私の性には合いません」と呟くことにしよう!

しかし、キリスト教は、なんと感動的で美しい物語の題材に成り得るのだろう。

読み終えてから、なんとなくマーラー交響曲8番の冒頭が聴きたくなったけれど、こういった西洋音楽の美しさとキリスト教の信仰も無関係ではないような気がする。

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