メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

「王子と乞食」

《2014年3月10日付け記事の再録》

小学生の頃、区の図書館から本を借りて来て良く読んだ。その多くは、“少年少女文学全集”といった類の本で、海外の文学が子供向きに平易に訳されていた。
ジュール・ベルヌの作品であるとか、ルパンやホームズが活躍する物語、「 モンテ・クリスト伯」を十分の一ぐらいに縮めた「 巌窟王」、「 罪と罰」のような余り子供向きとは思えない小説もあった。
「モンテ・クリスト伯は、中学に上がって直ぐ、岩波文庫の完訳で読み直した。「罪と罰」」なども後に完訳を読んだけれど、「ああ無情(レ・ミゼラブル)」とか「何処へ行く(クオ・ヴァディス)」とか、結局、“少年少女文学全集”で終わってしまった作品が多い。今からでも読んでみたいとは思うけれど・・・。ジュール・ベルヌや“ホームズ”も完訳で読んだら面白いかもしれない。
マーク・トウェーンの「王子と乞食」は、2003年だったか、岩波文庫の完訳を買って来て読んだ。非常に面白いと子供の頃から印象に残っていたこともあるが、トルコで友人の子息に、平易なトルコ語訳をプレゼントしたので、自分ももう一度読んでみようと思ったのである。 
その頃、「 モンテ・クリスト伯」を再読して、なんとなく“子供の読む小説”だなんて感じたけれど、「王子と乞食」は、大人でも充分に楽しめる“童話”じゃないかと思った。苦難の中で、“国王”としての矜持を失わない“王子”の健気さに胸を打たれた。この“感動”には、翻訳の素晴らしさもあったかもしれない。
翻訳は村岡花子氏で、花子氏の生涯は、今月(2014年3月)からNHKの連続ドラマになるらしい。もっとも、イスタンブールでこの連続ドラマを観る機会はまずないだろう。
岩波文庫の「王子と乞食」の巻末では、村岡花子氏の“訳者のことば”も読むことができる。ここに、とても興味深い考察が明らかにされているので、以下に引用してみたい。
「・・・マーク・トウェーンの生涯の願望はキリストの伝記を書くことであったが、自分の筆はかかる宗教的のものを書くには余りに諧謔味が勝ち過ぎていると自覚して、敢えてそれを試みなかったということを、私は以前に読んだことがありました。この事実を知ると同時に、正しくして世に容れられず人の世のあらゆる艱難と誤解と迫害とを一身に受けたイエス・キリストの一生に就いて知る人が、この小説を読む時、身は尊い王家に生まれながらも虐げられ嘲られて冷たい世をさまよい歩き、真の友を求める若き王子の上に、単なる小説の主人公という以上に、何か一種の暗示的なものを読み得るようにさえ感じられます。・・・」
私はキリスト教徒じゃないし、殆ど信仰らしい信仰は持っていないけれど、この話はしみじみと解るような気がした。「真の友を求める若き王子」は、悪に対して厳しい正義感で臨むものの、あくまでも慈しみ深く、愛に溢れていた。
しかし、岩波文庫の「王子と乞食」では、もう一つ驚いたことがある。本のカバーに記された以下の言葉だ。
「・・・エリザベス一世時代のイギリスを舞台に、人間は外見さえ同じなら中身が変わっても立派に通用するという痛烈な諷刺とユーモアに満ちたマーク・トウェーンの傑作。」
これを書いた方は、いったい何を読んだのだろう? この言い回しに左翼的なイデオロギーを感じてしまうのは私だけだろうか?
別に宗教を礼賛するつもりはないが、キリスト教にしてもイスラム教にしても、そこには必ず愛や慈悲が語られている。多少如何わしくても、こういう“愛や慈悲”が何処かで語られていなければ、世の中、どうにも息苦しくなると思う。
社会主義的な思想は、現代の社会制度に取り入れられ、役立てられているけれど、その平等志向は、“愛”というより、何だか“憎しみ”から成り立っているように感じてしまう。王家や皇室、為政者たちは、いとも簡単に憎しみの対象になる。
ある種の人たちは、そういった“憎しみ”を叫ぶことでフラストレーションを解消しているのではないか。宗教と同様、これも“阿片”と変わらないかもしれない。

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