メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

アルコールは一滴も飲んではならない/宗教で無理強いがあってはならない

10年ほど前、2012年か2013年だったと思う。イスタンブールのユルドゥズ工科大学にイスラム神学部の先生を訪ねたところ、先生はパソコンで何やら執筆中という様子だった。

挨拶すると、パソコンの画面から顔を上げて、「今、聖典によればアルコールは一滴たりとも飲んではいけないという論文を書いているんですよ」と言って微笑んだ。

それから、念を押すかのように、「いいですか? 一滴も飲んではいけないんですよ」と繰り返していたけれど、私は内心、『そんなことぐらいイスラム教徒じゃない私でも知っていますよ』と少し呆れてしまった。

しかし、この先生も、もちろん「絶対に飲酒は認めない」なんてことは言わない。おそらく、聖典で禁じられているのを承知しながら飲むのはともかく、「少量の飲酒は構わない」と教義が曲解されているとしたら、それは正さなければならないと感じたのだろう。

実際、「酔うほど飲まなければ良い」とか「聖典が禁じているのはワインだけだ」とか色んなことを言うトルコ人がいる。

2012年の暮れ、信仰に篤いイスラム教徒が多く集まるモスクとして知られている「エユップ・スルタン・ジャーミー」を金曜礼拝の時間に訪れたら、モスク前の広場も礼拝に来た信者で埋め尽くされていた。

スピーカーから流されているイマーム(導師)の説教に耳を傾けてみると、「来週の火曜日には新年を迎えますが・・・新年を祝うと言って、朝まで酒飲んで遊んでいて良いのでしょうか?」なんて問いかけている。

もちろん、「朝まで飲まなければ良い」という意味ではないはずだが、トルコには「12時までなら良いらしい」とか勝手なことを言い出す輩が結構いるような気もする。

また、イマームグレゴリウス暦の「新年」について語っているのもトルコならでは光景じゃないかと思った。

一方、イスラムには「宗教で無理強いがあってはならない(Dinde zorlama yoktur)」という言葉があり、これは「無理に改宗させてはならない」という意味になるそうだ。

ところが、ラマダンになると、断食を実践しない鈍ら信者が「宗教で無理強いがあってはならない」などと弁明に努めているのを度々聞くことがあった。

最近は、そういう勝手な解釈がSNSで拡散されたりしているようだから、それを是正しなければならない神学部の先生たちもなかなか大変であるかもしれない。

しかし、私でも知っているような教義の意味を曲解してしまうとは、いったいどういうことなのだろう?