メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

トルコのクルド人差別

《2009年9月4日付けの記事を修正して再録》

2009年の5~6月頃、テレビ取材の仕事で、運転手付きのレンタカーを借り、トルコで最も西に位置するチャナッカレやトラキア地方を回った。

運転手は、トルコの東端に位置するヴァン県のクルド人で、なんとも天真爛漫な32歳の男だった。3人の子持ちである一家の大黒柱を天真爛漫なんて言ったら失礼だが、とにかく陽気で人懐っこく、底抜けに明るかった。ところが、彼は運転手なのにトルコの地理が全く解っていなかったのである。これには結構困らされた。

(*後日明らかになったが、彼の家はかなり裕福で、数台の車をレンタカーとして貸し出し、運転手も雇用していたのである。どうやら、依頼者が日本人だったので、興味本位に自分が運転手になっていたらしい。)

日程の後半、トラキア地方から一旦イスタンブールへ戻り、それからブルサに行って取材した後、チャナッカレへ向かって車を走らせていると、途中、ダーダネルス海峡が見えて来たので、「もうそろそろチャナッカレだね」と話しかけたところ、「えっ、これがチャナッカレの海峡? すると向こう岸はギリシャか」なんてことを言い出す。

「おいおい何言ってるんだ。明日は、俺たちも海峡の向こう側へ渡ることになっているよ」

「えっ、うそ? ギリシャへ行くの?」

ギリシャのわけがないだろ。この前に行ったトラキア地方へまた戻るだけだよ」

「でも、チャナッカレ戦争では、向こう側からギリシャ軍が攻めて来て、それをトルコの勇敢な兵士たちが迎え撃ったはずだけど・・・」

「違う違う、チャナッカレ戦争で攻めて来たのは英国を中心とする連合軍じゃないか」

「そうだっけ?」

いつもこんな調子だから、目をしっかり開けて置かないと、何処へ連れて行かれるのか解ったものではなかった。

しかし、持ち前の人懐っこさで、何処へ行っても直ぐに土地の人たちと仲良くなってしまう。

最初にトラキア地方のエディルネへ行った時も、取材に協力してくれた地元の床屋さんと、まるで昔からの友達みたいに親しくなっていた。

彼はイスタンブールで生まれ育ったものの、クルド語が紛れもない母語になっていて、運転しながら携帯を片時も放さず、クルド語で何やら楽しそうに話し続けていた。

私には、クルド人としての不満も少し漏らしていたけれど、行く先々で出会うトルコ人には、わざわざクルド人であると強調したりせず、その代わり、何処でも「僕はヴァンの者です(ヴァンの地元住民は殆どクルド人)」と出自を明らかにしていた。

エディルネでは、手作業で篭を作っているロマ民族(ジプシー)の村も取材するつもりだったが、床屋さんの案内で村へ下見に行くと、法外な謝礼を要求されて、とても取材どころではない。

これに憤った彼は、村の人々に向かって、床屋さんを示しながら「この友人は無償で取材に協力しているんだぞ。それなのに何だお前たちは! トルコ人として恥ずかしくないのか! お前らみたいな連中がトルコ人であって堪るか!」と怒っていた。そういう時は彼も完全に「トルコ人」という意識になっていたのだろう。

もちろん、場合によっては、クルド人という意識が顔を出す。ブルサ辺りの国道で、屋根の上にも家財道具を積んで走っているワゴン車を追い越しながら、助手席の私を突っついて叫んだ。

「わーい、あの車見てよ! ディヤルバクル県のナンバーだよ。その内に何処かで警察に止められるね」

「やっぱり止められるのか? ラディカル紙にそんなことが書いてあったけれど・・・」

「なんて書いてあった?」

「編集長のイスメット・ベルカンが、『トルコにクルド人差別がないと言ってる人は、ディヤルバクル県ナンバーの車で、ブルサからイスタンブールまで走ってみたら良い、どのくらい警察に止められて不愉快な思いをすることか』って書いていた」

「本当だよ。良い記事を書いてくれるね。でも、このブルサ県のナンバーでディヤルバクルへ行ったら、それも向こうで止められてしまうよ」

とは言うものの、彼はエルドアン政権の熱烈な支持者であり、クルド系政党のDTP(現在のHDP)を「分離主義者」と決め付けて非難していた。

「僕の親戚は、皆イスタンブールで良い生活している。それに、以前、僕は観光業界で働いていたから分かるが、イスタンブールの大きなホテルのオーナーの殆どはクルド人だよ。それなのに南東部だけ独立してどうしようと言うんだ? 全く馬鹿げているね」と力説していたけれど、「大きなホテルのオーナーの殆ど」というのが、どのくらい数値的に裏付けられているのかは解らなかった。

しかし、当時もDTPを支持するクルド人の多くは、おそらく分離独立までは望んでいなかったと思う。イスタンブールを始めとする西部の大都市へ移住し、そこで少なからぬ財産を築いているクルド人が当たり前に存在していたからである。南東部のクルド人もその大部分は、西部から切り離されたら困ってしまうだろう。

ところが、西部のトルコ人たちは、南東部が切り離されても特に困らないので、本音を言えば、『さっさと独立してもらいたい』と思っている人が、当時もかなりいたはずだ。今では、その隠されていた本音をあからさまに主張する人も少なくない。

観光のメッカとなっているイスタンブールの歴史地区スルタンアフメットで、ホテルやレストランを経営している人たちを見ると、実際、クルド人が甚だ多いように感じていたが、クルド人の友人から以下のような話を聞いたこともある。

西部の地方都市、バルケスィルで生まれたクルド人が、スルタンアフメットで小さなホテルを開業するため、役場に申請したところ、受け付けた役人からこう言われたそうだ。「君はバルケスィルの人なんだ。嬉しいねえ。最近、申請しに来る奴はクルドの連中ばかりなんで嫌になっていたよ」。

身分証明書で解るのは出身地だけだが、南東部の出身者は皆クルド人であると思われていたらしい。

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