メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

孫文記念館/毛沢東とアタテュルク

昨日の夜勤明け散歩は、「福原と文明堂」の後にも続きがある。カステラを買うと、新開地で山電に乗って舞子に向かったのだ。

11月2日の夜勤明け散歩で、駒ヶ林から舞子まで歩き、明石海峡大橋の袂に洒落た洋館があるのを見た。家に帰ってから調べて、その洋館は孫文の記念館であることが解った。昨日はそれを見に行ったのである。

記念館は、明治から大正にかけて活躍した華僑の実業家、呉錦堂の別荘だった建物であり、1984年に改装されて開館したという。

呉錦堂は孫文の有力な支援者だったため、1913年に来日した孫文の歓迎会はここで催されたそうだ。

呉錦堂の子孫の方は今も西宮にお住まいで、記念館を訪れることもあるらしい。

三宮から北野辺りの高級住宅地を歩くと、「劉」や「趙」といった中国姓の表札を良く見掛ける。呉錦堂の子孫の方も、そういった華僑の一人なのだろう。

記念館で明らかにされている孫文の業績等までここに記すつもりはないが、実のところ、私には孫文の業績というのがどうも良く解らないのである。

三民主義」を掲げ、辛亥革命を成し遂げて清朝を崩壊させたものの、その後、国家を統治して、新しい中国の建設に携わったというような事績は余り明らかになっていない。まさしく革命家であって、実務的な政治家ではなかったのかもしれない。

中国では、毛沢東も同様の革命家だったように思える。文化大革命により、古い中国を破壊しただけで、新しい中国の建設は後世に任せてしまった「偉大なる破壊者」と言ったら、中国の人に怒られるだろうか? 

しかし、文明を創造した中国には、おそらく、文明を破壊する大きな力も潜んでいたに違いない。

破壊のスケールは大分小さくなるけれど、日本では西郷隆盛が、この「偉大なる破壊者」に類していたのではないかと思う。そのため、西郷さんに愛着は感じても、その業績を問われたら、やはり何だか良く解らなくなってしまう。

とはいえ、日本の歴史を見ると、そういった破壊者、革命家は少なかったような気がする。日本では、調整力のある実務的な政治家が好まれて来たかもしれない。

そういう日本とは異なり、中国やフランス、ロシアには革命家が生まれやすい風土があるのだろう。

一方、トルコでは、アタテュルクが「革命家」として賞賛されたりもするけれど、アタテュルクの業績はかなり解りやすいのではないか。

アタテュルクには、実務的な政治家としての側面が際立っていた。バランスが取れた指導者であり、都度に常識的で当たり前な判断を下していたように感じられる。「破壊者」というより、明らかに「建設者」だったと思う。

政教分離の共和国革命も、タンズィマートの改革以来の流れを見れば、突拍子もない出来事じゃなかったようだ。

しかし、世界中の注目を集めるのは、突拍子もない極端な革命の物語であるかもしれない。だから、アタテュルクも、毛沢東のようには、世界で持て囃されなかった。常識的で当たり前な人物は、あまり面白くないのである。

日本の俗物である私から見たら、これは大変結構なことであるような気がする。

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