メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

オザル大統領の命日(4月17日)

1993年の4月17日にオザル大統領が亡くなってから、既に28年が過ぎた。

その頃、東京にいた私は、朝日新聞の朝刊で「オザル大統領死去」のニュースを知った。

多分一面ではなかったかと思うが、先ず見出しの「オザル大統領・・・」が目に入り、『何だろう? トルコのニュースがこんなに大きく扱われるのは珍しいな』と思いながら視線を下にずらし「死去」の字を見届けるや、思わず心の中で『わっ!』と声を上げてしまったように感じた。

直ぐに、当時、東京で働いていたトルコの友人に電話を掛けたところ、未だこのニュースを知らなかった彼は、「えっ! 本当か?」と驚きながらも、私が何か言う前に「暗殺されたのか?」と訊いた。
「いや、心臓麻痺だったらしい」と答えると、「うーん」と唸ってから、「でも急に死ぬなんて彼らしいよな。急ぎ足で舞台に現れて急ぎ足で去ったということか。しかし、彼が死んだらクルド人たちは困るだろうな」と言う。

この友人もオザル氏と同郷のマラティヤ出身でクルド人だったため、「そんなこと言ったって君もクルド人だろう?」と言い返したら、「僕はそういうクルド人じゃないよ」と笑っていた。

その1年ほど前、1992年の5月頃、私はイスタンブール市内で自ら車を運転するオザル大統領の姿を見たことがある。

乗っていた市バスが、ベシクタシュの船着場前でゆっくり左に曲がったところ、向こう側から来たベンツも曲がり角でスピードを緩め、運転している人の顔が明らかになると、バスの乗客が数人、「あっ! 大統領だ!」と口々に言うので、私もそのベンツの運転手を注視したら、それは紛れもないオザル大統領だった。

オザル大統領の顔は少し微笑んでいるように見えたが、ベンツは直ぐに走り去ってしまい、隣に座っていたのがセムラ夫人であったかどうかも確認できなかった。

しかし、オザル大統領自身がハンドルを握っていたのは確かで、ベンツの後ろを1台警察のバイクが追いかけて行った他に、護衛の車両などもなかったように記憶している。

翌日、新聞を見てまた驚かされた。「大統領、またもや記録を塗り替える! ベンツを運転してイズミットの某所を出たのが、〇時〇分。アクセルを踏み込んでスピードを上げ、〇時〇分、イスタンブールのオルドゥエヴィ(軍の施設)に到着。その間、僅か〇時間〇分!」といったような記事が載っていたのである。

当時、オザル大統領がスピードを好み、大統領になってからも、度々、ハンドルを握っていたのは、巷に知れ渡っていた。

1988年、日本の企業グループによって、ボスポラス海峡の第二大橋が完成すると、オザル大統領(当時首相)は、開通式の先頭車両を自ら運転したそうだ。日本トルコ友好議員連盟の会長として助手席に座っていたという金丸信氏も、猛スピードの運転に驚いたのではないだろうか?

オザル大統領が急死すると、反対派のジャーナリストも丁重な追悼文を書いていたが、その中でハサン・ジェマル氏の回想がなかなか興味深かった。

オザル大統領のヘリコプターにジェマル氏が同乗したところ、上空に至ったヘリコプターが突然、急降下し始めたというのである。ジェマル氏は慌てふためきながらも、オザル大統領を観察すると、大統領は至極冷静な様子に見えたものの、急降下が終わるや、ニヤッと笑みをこぼしたらしい。

「おそらく、オザルは『この記者を少し脅かしてやれ』と密かにパイロットに命じていたのだろう。その時は腹も立ったが、今となっては懐かしい思い出だ」という風にジェマル氏は記していたのではないかと思う。

オザル大統領は、なかなか破天荒なエピソードに事欠かない人物だったのである。

1988年には、党大会で演説中に狙撃されている。そして狙撃で軽傷を負ったにも拘わらず、オザル大統領(当時首相)は応急処置を施して演説を続けた。

その時の第一声、「アッラーの与えたもうた命は、そのお望みがなければ誰も奪えない!」という言葉は、亡くなった後も長きにわたって語り草となっていた。

*1988年の狙撃事件

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