メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

トルコと日本の「母語の問題」

2011年の7月まで4年近くの間、イスタンブールのエサットパシャで、友人たちとシェアしながら借りていたアパートの家主のビュレントさんは、トルコの東端カルス県出身のクルド人だった。当時、37~8歳ぐらいじゃなかったかと思う。ペンキ塗装屋を経営しながら、自ら現場で働いていたようだ。職人としての腕前も確からしく、塗装の良し悪しについて蘊蓄を述べたこともあった。

その僅か3年前でも、以下の駄文にあるように、「職人が経営者になることもなければ、経営者が現場で自ら働くこともない」という認識がトルコではまかり通っていたため、私にはこのビュレントさんの話がとても新鮮に感じられた。

ビュレントさんは、アルミサッシの施工販売で成功した兄を頼ってイスタンブールに出て来たらしい。ペンキ塗装の営業も兄の紹介で広げて行くことが出来たようである。しかし、この兄も元々現場で働きながら施工の技術を身に着け、会社を立ち上げたに違いない。

1980年代以降、故オザル大統領の経済開放政策に伴い、やる気のある人たちが地方から大都市へどんどん出て来るようになり、社会の様相は急変したそうだ。そして、成功者となったビュレントさんのような人たちが新しい中産階級を構成し始め、彼らが故オザル大統領の後継者と言える現エルドアン大統領のAKPを政権へ押し上げたのだと言われている。

ビュレントさんも明らかに時のエルドアン首相とAKPを支持していた。クルド人の多いカルス県の出身と言うので、私が挨拶の言葉以外に唯一知っているクルド語(クルマンチ方言)で「クルマンチ・ザーニー?(クルマンチ語解りますか?)」なんてやったら、とても喜んでいたけれど、クルド民族運動には殆ど興味もないようだった。一度、高校生の息子さんを連れて来た際に、「息子さんもクルド語解るの?」と訊いたら、「いやあ、聞くのは少し解るみたいだが、話すのは全く駄目ですよ」と笑っていた。

2011年になって、ビュレントさんのところは少し余裕が出来たらしい。それまでは、購入したアパートを私たちに貸し、自分たち4人家族はもっと狭いアパートを借りて住んでいたようだが、いよいよ自分の持ち家で暮らすことを決め、立ち退きを要求してきた。それで私はイエニドアンへ越すことになったのである。

ビュレントさんは多少申しわけないと思ったのだろう。8月になって、イスタンブールを訪れていた母と私を夕食に招待してくれた。ちょうどラマダンの時期だったけれど、日没まで待たなければならないイフタル(断食明けの夕食)では、イエニドアンへ帰る時間が遅くなってしまう。それで、未だ日の高い6時頃に伺うことになった。

夕食の席についたのは、母と私とビュレントさんだけで、他の家族の面々と近くに住んでいるというビュレントさんの弟は、向こうのソファに座ってこちらを眺めている。ビュレントさんに「貴方は断食していないのですか?」と訊いたら、「私はペンキ屋なんでね。この暑さの中で水も飲まずに働くのは無理ですよ」と笑っていた。弟はエアコンの効いた事務所で営業を担当しているので、問題なく実践できるそうだ。

家族の面々は、奥さんと高校生の息子、そしてその妹。彼女も高校生ぐらいに見えた。私に色々質問したりして活発な雰囲気である。ビュレントさんによれば、勉強も良く出来るという。

奥さんと会ったのもこの日が初めてだった。奥さん、私とはトルコ語で話したものの、ビュレントさんとの夫婦の会話は、トルコ語で始めても、途中からクルド語になってしまう。どうやら、ややこしい表現が使いこなせるほどトルコ語には習熟していないらしい。おそらく、息子さんがクルド語を「聞くのは少し解る」というのも、両親の会話の多くがクルド語であるためだろう。しかし、親が積極的にクルド語で話し掛けない限り、聞いているだけで「母語を得る」のはどうやら難しいようである。

上記の駄文でコラム記事を紹介したムフスィン・クズルカヤ氏に、宗教的な傾向は余りないように思える。そのため、アイデンティティとして「クルド語を母語とするクルド人」であることを強く意識していたかもしれない。それに比べると、ビュレントさんのアイデンティティは、どちらかと言えば宗教に依っていたような気がする。息子さんをモスクの金曜礼拝へ連れて行くことはあっても、クルド語の学校へ連れて行こうとはしなかったに違いない。

我々がなかなか理解できないのは、トルコの人たちに見られる「宗教によるアイデンティティの強さ」と「エスニックな民族意識の希薄さ」ではないかと思う。(ナショナリズムにおけるトルコ人意識はこれと異なる)

しかし、こういった「母語の喪失」はトルコに限った問題じゃないだろう。日本でも、明治の近代化以降、同様に母語を失った人たちは多かったはずである。

2005年、イスタンブールで邦人企業が進めていたトンネル工事の現場へ日本から出張してきた奄美大島出身の親方は、「トルコ語って日本語と語順が同じか? それなら俺は直ぐに話せるようになるな。だって、俺は日本語もそうやって勉強したんだから。でも、最近は島言葉のほうを忘れてしまって、島へ帰ってもお祖母ちゃんと巧く話せなくなった」と嘆いていた。沖縄でも、祖父母と会話が通じなくなった若い人たちは少なくないという。東北などの各県でも同様の事例は多かったに違いない。

三上寛の歌に、「思い出は標準語で蘇ってまいりました。絶望的な痛みから逃れるために・・・」という一節があったけれど、だからと言って、三上寛が、津軽言葉の保護に格別尽力したという話も聞いていない。

現在の日本で、各方言について研究しても、それほど脚光を浴びることはないし、何よりも、まずは経済的な利益が得られないだろう。イスタンブールで、クルド人であるビュレントさんが、クルドの文化や言語の保護に殆ど関心を示さなかったとしても、それは全く不思議なことでもないと思う。