メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

「日本統治下のピョンヤンで生まれたトルコ人の老紳士」

《2007年1月17日付け記事を修正して再録》

日本人の友人の引き合わせで、昨年、イスタンブール市内にお住まいの80歳になるトルコ人の方とお近づきになり、昨日(2007年1月16日)はこの老紳士から昼食を御馳走になったうえ、色々な話を伺う機会に恵まれた。

この方の御両親はロシアのバシコルトスタン出身のタタール人、御自身は日本統治下のピョンヤン平壌)に生まれてソウル(当時の京城)で育ち、戦後の1948年に家族そろって韓国を離れ、それまで頻繁に行き来していた日本へ渡り、その後1951年になってイスタンブールへ移住したという。

バシコルトスタンでは一族が富裕な商人階級であったため、赤軍が蜂起すると、家族はその迫害を恐れて東へ東へと逃れた末、日本統治下の朝鮮に定着した。ソウルでは、当時、黄金町と呼ばれていたウルチロで衣料品を扱う商店を経営していたようである。

この方の日本語はまことに流暢で、目を閉じて西洋人らしいお顔を拝見しなければ、東京の下町で御隠居さんと話しているような錯覚にとらわれてしまう。しかし、その頃のソウルは、日本語さえ知っていれば生活に困らない都市だったのか、韓国語の方は、ほんの片言しか話せなかった。

当時の“黄金町”に立派な競泳用の50mプールがあったことや、この黄金町で子供の頃、近所の銭湯へ行き、帰りにうどんを食べた話などを伺っていると、88年頃のウルチロを良く知っている私は、何だかとても不思議な感じがした。

他にも、黄金町から“トクソン”という葡萄畑の広がる遊行地へ、“サファリ電車”と呼ばれていた「幌で上だけを覆った電車」に乗って行った話、8~9才の頃、京城に住んでいたタタール人が集まって、仁川(インチョン)近くの月尾島(ウォルミド)にあった遊園地を借り切り、遊行会を催した際の思い出、やはり9才ぐらいの時、京城三越百貨店の屋上にアドバルーンが上がっているのを見て喜んだ記憶など、本当に驚くべき話が次から次へと出てくる。

私は、生まれ育った東京の錦糸町に、何という映画館があったのか、今まったく思い出せないが、老紳士は京城にあった映画館を、「黄金座、若草劇場、キラク館、浪速館、明治座、ユウビ館」と並べあげていた。なんでも明治座が最も格式のある映画館だったそうだ。

94年頃、私はイスタンブールで韓国人の方から、戦前にソウルで洋服屋を営んでいたタタール人が、戦後イスタンブールへ渡って来て、オスマンベイの辺りで洋服屋の店を開いたという話や、やはり戦前のソウルでタタール人夫婦が営む洋服屋に奉公していた韓国人男性が、夫に先立たれた女主人と結婚、戦後一緒にイスタンブールへ移住したという話を聞いたこともあったので、これについても伺ってみた。

「2~3そういう例があったようですが、イスタンブールへ来てからも洋服屋をやった人は殆どいませんでした。その2~3の例も皆失敗に終わったそうですよ。それから、タタール人と結婚した韓国人なら私も知っています。男の方はとても背が小さかったのに、相手は随分と背が高い女性でした。彼らも洋服屋じゃなくてスルタンハマムで服地の商いをしていたようですね。彼らの息子はもう60近いんじゃないかと思うけれど、イズミルに住んでいると聞いてます。韓国語? いや全く知らないでしょう。彼はもう完全なトルコ人ですよ」。

また、この方は、イスタンブールへ渡る前の東京で、やはりタタール人であったロイ・ジェームスさんと度々酒を酌み交わす仲だったという。

それから、戦前の京城で、どんな音楽が流行っていたのかという話になったので、私が上記の「子供の頃に聴いた歌~」で御紹介した「ただ一度だけ」「モンテカルロの一夜」「水夫の恋」のメロディを口ずさんで見せたところ、大変喜んで、一緒に3曲とも「ララララ♪」と大きな声で合唱した。

「『ただ一度だけ』『モンテカルロの一夜』なんてね。これは本当に名曲ですよ」と懐かしそうに語り、とても感慨深げな様子だった。

私の父はこの方より10歳ぐらい年上のはずだが、戦前戦中の“日本の若者たち”にとって、これらの歌は心に響く思い出となっているのだろう。


会議は踊る Das Gibt's Nur Einmal (Irene Eisinger m.).MOV

f:id:makoton1960:20210221084953j:plain

ソウルの新世界デパート本店(日本統治時代には、三越京城支店だった建物)