メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

「ヤクザ稼業と夜逃げ」

《2009年12月25日付け記事を修正して再録》

1980年、20歳の私は東京北区の小さな運送会社で働き始めた。

その運送会社は大企業〇〇〇印刷の専属で、私は〇〇〇印刷の各工場間を走るライトバン便の運転手だった。ライトバン便は主に本社工場と〇〇工場を往復して、版下などを運ぶと共に、社員の方々の交通機関にもなっていた。

本社工場では、いつも本社ビルの地下駐車場で待機していたけれど、この地下駐車場には〇〇〇印刷社長の専用車であるベンツも待機していたため、社長専用車の運転手さんとは自然と顔見知りになる。

ある日、地下駐車場で待機していると、営業の課長さんと部下が乗り込んできて、「さあ、もう行こう。〇〇工場まで頼むよ」と言うので車を出発させ、〇〇町の交差点に近づいたところ、脇道から社長専用車のベンツが現れ、運転手さんは私の顔を見て鷹揚に合図し、私も軽く会釈して前に入れてあげた。

すると、後ろに乗っていた部下の人は、「運転手さんよお、あんな無礼な奴を入れてあげちゃ駄目だよ」みたいな文句を並べたが、課長さんはそんな部下をたしなめて、「でも、ああいうベンツに乗っているのはヤクザ者が多いからさ、入れてあげたほうが無難かもしれないね」と言う。それで私も理由を説明することにした。

「いや、社長の車だから入れてあげたんですよ」

「えっ? 社長の車? 君の運送屋の社長さんかい? いや御免、申しわけない。そういえば、運送屋の社長さんとかもああいう車に乗ったりするよね。別にヤクザっぽいわけじゃないけど・・・」

「いや、うちの社長じゃありませんよ。〇〇〇印刷さんの社長です」

「えっ! そうなの?! まっ、印刷屋もヤクザ稼業だからなあ、ハハハハ」

これには皆で大笑いした。

この運送会社は、ライトバンを7台ぐらい、他にトラックも数台所有していたから羽振りが良さそうに見えたかもしれないけれど、内情は火の車で、度々給与も遅れるほどであり、社長はもちろんベンツなんて乗れるわけがない。いつも軽自動車に乗っていた。

社長は、親が創った運送会社を譲り受けた35歳ぐらいの静かな大人しい人で、運転手を叱り付けたりできないものだから、気の強そうな奥さんがその役割を務めていたくらいだ。

私は高校の同級生をこの職場に誘い入れたりしたのに、自分は給与の遅れに不安を抱き、同級生の友人をそこに残したまま、新宿区内の他の運送屋に転職し、2tトラックで配送の仕事を始めた。

ところが、3ヵ月ぐらい経ったある日、仕事を終えて飯田橋近くの安アパートへ帰ると、以下のような友人の書置きが目に留まったのである。

『会社が潰れて、社長は夜逃げした』。

友人に連絡したら、殆どの運転手の給与が未払いのままで大騒ぎになっているらしい。「皆で社長の行方を探しているんだ。お前もトラックで方々走っている時に注意してくれ」と友人は私にも協力を求める。

その1ヵ月ぐらい後のことだった。あれは今から考えても不思議でならない。

2tトラックの配送が済んで車庫に向かう途中、北新宿の職安通りに出る一方通行の道を走っていたところ、突然、トラックの前に5歳ぐらいの男の子が飛び出して来た。

急ブレーキを掛けて良く見たら、それは紛れもない社長の子供だったのである。

裸足で泣きながら走って行く男の子の後を徐行しながらつけると、その子はスーパー北新宿丸正の中へ入って行く。

私は適当なところにトラックを駐車させ、スーパーの前で子供が出て来るのを待ち構えることにした。

うまく行けば、社長も一緒に出て来るかもしれない。5分ほど待っただろうか? 中から子供の手を引いた奥さんが姿を現したのだ。

ほんの4ヵ月ぐらい前に見た時は、相変わらずキャリアウーマン風にきめていた奥さんが如何にもくたびれた貧しい主婦の姿となって私の前に立っている。

奥さんも直ぐ私に気がついたらしく、びっくりしたように動きを止め、私が普通に挨拶したら、そのまま肩を震わせながら泣き崩れてしまった。

それを見て、私は言おうとしていた言葉を全て忘れてしまい、「皆、とても心配しています。とにかく一度連絡して下さい。お願いします」とだけ言うと、逃げるようにその場を離れた。

トラックを車庫に戻してから友人に電話して、この出来事を伝えたところ、友人は初め「よくやった!」と喜んだものの、その後の顛末を聞いたら、「馬鹿野郎! それでお前は『はいそうですか』と居所も確かめないで放しちまったのか!」と怒っていた。

社長の家族がその後どうなったのかは解らない。5歳ぐらいだった息子さんは、もう45歳ぐらいになっているだろう。

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