メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

祖国愛の問題?

2001年7月のヒュリエト紙の記事でウルエンギン氏は、その4カ月前に就任したデルビシ財務長官について論じていた。この記事を再読した後、デルビシ財務長官の経歴をウイキペディアで調べてみて、今更ながら驚かされた。人生の大半をアメリカで過ごしていて、殆どトルコには住んでいたことがない。
生まれはイスタンブールのようだが、大学はイギリス、さらにアメリカで学業を続け、世界銀行に就職した。2001年にトルコが経済危機に陥ると、22年間務めた世界銀行を辞職して帰国、エジェビット内閣で経済の舵取りを任されたものの、翌年辞任している。
その後も、トルコで政治活動を続けていたが、2005年には、国際連合開発計画の代表に任命され、2009年までこの職務に留まる。現在、トルコの大学でも活動しているようだが、生活の拠点はアメリカにあるらしい。夫人もアメリカ人であり、ウイキペディアにそういう記述はなかったが、おそらく米土の二重国籍と思われる。
2001年の当時から、「あれはアメリカの手先だ」なんていう噂が絶えなかったけれど、この経歴を見たら、確かにそうなのかと思ってしまう。
しかし、ウルエンギン氏の記事は、デルビシ氏へのそういった疑念に全く触れていなかった。ウルエンギン氏は、左派のアタテュルク主義者と言えるはずだが、自身を共和国の伝統的なブルジョワと認めて、デルビシ氏もそのカテゴリーに含めている。
2004年3月のラディカル紙でアヴニ・オズギュレル氏が論じたところによれば、共和国革命の最中、ブルサのアメリカン・カレッジの閉鎖を命じたアタテュルクは、この手の学校を「裏切者の巣窟」と呼んでいたそうだ。いずれにせよ、アタテュルクなら、デルビシ氏をアメリカから招き寄せたりすることはなかったような気がする。
昨年の11月、アタテュルクの命日を前にして、近所の家電修理屋さんは、次のように語っていた。
「今、アタテュルク主義とか言ってる連中には、ミッリがない(祖国愛がない)。でも、アタテュルクにはミッリがあった。そうじゃなかったら救国戦争に勝てるはずがない。そして、アタテュルクと一緒に戦ったのは、今のアタテュルク主義者みたいな連中じゃない。我々のようなムスリムだったのだ!」
ウルエンギン氏の記事を改めて読んだら、この家電修理屋さんの言葉が、一層重みを増してきたのではないかと感じてしまった。