メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

コンセルバトゥワールのコメディ

カラル紙のコラムで、イブラヒム・キラス氏は、先日亡くなった映画スターのタールク・アカン氏を「自分の主義主張に誠実で、利益の為にぶれてしまう人ではなかった」と称えながらも、アカン氏に代表されるラディカルな政教分離主義者に対しては、かなり批判的に論じていた。
その中で、政教分離主義者の多くが、アタテュルクとナーズム・ヒクメットを同時に敬愛しているのは理解し難いと述べていたけれど、これには「確かにそうだ」とうなづいてしまった。
ナーズム・ヒクメットは、共産主義的な思想のため、ソビエトに亡命して、1963年にモスクワで客死した詩人・文学者である。
アタテュルクとナーズム・ヒクメット、これは日本で例えるならば、大久保利通プロレタリアート文学者の小林多喜二を同時に敬愛しているようなものかもしれない。
アタテュルクを明治天皇に例えようとしたら、もっと奇妙に感じられるだろう。
門外漢が見たら、アタテュルクとナーズム・ヒクメットに共通しているのは、西欧的な雰囲気と風貌の格好良さではないかと思えてしまう。共産主義者と言っても、ナーズム・ヒクメットからは、小林多喜二のような貧乏臭い雰囲気が全く漂って来ない。どの写真を見ても非常にダンディである。
若い頃のタールク・アカン氏も本当に格好良かった。それでいて、粗野な羊飼いの男、犯罪者等々、どんな役でも見事に演じ切ってしまう名優だった。
ところで、今ちょっと調べてみたら、タールク・アカン氏は機械工学科の卒業で、特に演劇の教育を受けた人ではなかったらしい。舞台ではなく映画でデビューした文字通りの銀幕のスターと言えそうだ。
テレビドラマ全盛の最近はどうなのか解らないが、かつてトルコでは、大学の演劇科を卒業した舞台出身の俳優・女優たちが、なんだか別格の扱いを受けていた。
大学の演劇科は、フランス語からの借用で“コンセルバトゥワール”と呼ばれたりするから、尚更格調高いものが感じられる。しかし、コメディをやる人たちまで、コンセルバトゥワールの卒業が強調されたりすると、何か間違っているような気がしてならなかった。
その所為か、トルコのコメディは、少し高尚に成り過ぎてしまって、腹を抱えて笑えるようなものが少ない。そもそも、高尚だったり上品だったりする笑いがあるんだろうか?
日本では、落語も「馬鹿々々しいお笑いを一席」と始めるくらいで、お笑いというのは、馬鹿々々しくて下品なものと相場が決まっていると思う。
古今亭志ん生の落語は大好きだが、私は落語に興味があるわけじゃなくて、とにかく涙が出るほど笑えるから聴くのである。
「火炎太鼓」で古道具屋の亭主が、150両の儲けを女房に見せる前、「座りしょんべんして馬鹿んなっちゃったら承知しねえからな!」と叫ぶところは何度聴いてもヒーヒー笑ってしまうけれど、「それの何処が面白いのか?」と訊かれても困る。
馬鹿々々しくて下らないだけだが、志ん生は、それを絶妙のタイミングで話すから面白いのかもしれない。
私は、古今亭志ん生が今の時代に生まれていたら、噺家じゃなくてお笑い芸人になっているように思えてならない。それほど、笑いを取ることに執念を燃やしていたような気がする。
逆に、明石家さんまは言うまでもなく、ビートたけし松本人志も、あの時代だったら噺家になっていただろう。
それから、私らの世代でお笑いと言えば、志村けん加藤茶を外すわけには行かない。日本に住んでいるトルコの人たちも、志村けんには大笑いするらしい。韓国の友人たちも大笑いしていた。
世界何処へ行っても、笑いのツボはそんなに変わらないのではないか? 多分、大概の人たちが、馬鹿々々しい下らない場面で笑っているはずだ。
ところが、トルコには、まだまだ品の良い「コメディ」なるものが多くて、どうも笑いが足りていない。コメディやる人は、コメディアンと称されるが、「お笑い芸人」の雰囲気とは大分異なる。高尚な芸術家といった雰囲気のコメディアンもいる。
だから、「舞台へ上がったからには、笑いを取らなければ降りられない」といった芸人魂はあまり理解されそうもない。
1997年だったか、トルコのイベント会場で、江頭2:50がすっぽんぽんになって大騒ぎになったらしい。トルコで全裸が許されないのはもちろんだが、「笑いを取ろうとして焦った」という気持ちも全く通じなかっただろう。残念ながら、トルコの人たちは、江頭2:50を「単なる変態」と思ったに違いない。
まあ、あれが通じてしまうのは日本ぐらいかもしれないが、以下の某演歌歌手のような「口パク」じゃなくて、自分の金玉で勝負しようとした江頭2:50さんは凄いと思う。
どうでも良いけれど、書き出しとは何の脈絡もない終わり方ですみません。

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