メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

カメレオンのように色を変える人たち

 コマーシャルとかテレビドラマのエキストラに駆り出されると、僅かとはいえ、一応出演料みたいなものを頂けるわけだけれど、3ヶ月ほど前に撮影があったドラマは、どうやら只働きになってしまったようだ。
当初、通訳斡旋エージェントから「日本語の通訳」という話があり、承諾して先方に連絡したところ、そこはエキストラを配給するエージェントで、結局、ドラマのエキストラをやらされることになった。
通訳じゃなくてエキストラだから、当然、外見も選考の条件になる。エージェントの社長が直々に電話して来て、「今直ぐ“WhatsApp”で写真を送ってくれ」と言い出した。
それで、「スマートフォンを持っていないから“WhatsApp”は使えないが、フェイスブックにはアカウントがある」と答えたら、フェイスブックに「友達リクエスト」を送って来た。
その後は、担当者と連絡を取り合い、撮影を済ませたものの、支払いについては、通訳斡旋エージェントの人が問い合わせようとしても、社長が雲隠れしたままで埒が明かないそうである。
撮影で一緒になった他のトルコ人エキストラに訊いても、状況は全く同じで、電話を取り次ぐ女性は、「社長がいないので解りません」の一点張りらしい。私が電話しても同様だった。
しかし、社長のフェイスブックのタイムラインには、毎日のように何か書き込まれたり、写真が貼られたりしている。それを見ると、この業界の人らしく、水着姿の女性とのツーショットやら、酒を飲んでいる場面もあるが、「テロは許さない」とか、AKP政権を支持するといった政治的な主張や、イスラムの信仰についての殊勝な話も書き込んだりしている。
この業界で、AKP政権を支持したり、イスラムの信仰について語ったりする人は非常に珍しい。度々お世話になっているエキストラ配給エージェントの社長テュルキャンさんに訊いたら、「あれは有名なペテン師よ。撮影の前に一言問い合わせてくれたら良かったのに・・」と残念そうに話していた。

先日亡くなった映画スターのタールク・アカン氏は、ラディカルな政教分離主義者で、言うなればまさしく「業界の人」だったが、イブラヒム・キラスというイスラム的な保守のジャーナリストは、アカン氏の思想を受け入れることができないと断りながらも、「自分の主義主張に誠実で、利益の為にぶれてしまう人ではなかった」と故人を称えている。
ということは、「利益の為にぶれてしまう人」が少なくないのだろう。
長らく宗教科の教師を務めてきた友人も、次のような思い出を語っていた。
昔、学校には、礼拝所や清めの施設がなかった為、共同の洗面所で足まで洗う清めの儀を行うと、その度に、政教分離主義的な校長から、「洗面所を汚さないでもらいたい」などと嫌味を言われたという。
ところが、2008年ぐらいになって、AKPが政権の基盤を固めたら、校長は嫌味や文句を言わなくなったばかりか、ある朝、突然、「セーラム・アレイクム」とイスラム式に挨拶して、友人を戦慄させたそうだ。
こんな人たちが、今、一斉に「ギュレン教団を許すな!」と騒ぎ立てているかもしれない。教団の排除は慎重に進めないと、思わぬ弊害が出て来てしまうような気がする。
今日のサバ―紙のコラムで、歴史学者のシュクル・ハニオウル氏は、初期の共和国が、画一的な国民を作り出そうとした過ちを指摘しながら、必要なのは個人の確立であると論じていた。
福沢諭吉の言う「私立」で、私にはこれがなかなか理解できないけれど、確かに、政教分離主義もイスラム主義も度を越してしまえば、そこに「個人」はいなくなるだろう。ギュレン教団にも「個人」はいなかった・・・。
2004年11月のコラム記事で、スアト・タシュプナル氏は、非常に政教分離主義的なジュムフリエト紙で働き始めた頃に受けた衝撃を語っている。
「・・・私が19歳になって、ジュムフリエトで働きはじめた頃、ラマダンで受けた衝撃を思い出す。同新聞の主要なメンバーでありながら、公然と断食を実践する者、金曜礼拝に参列する者、さらには食堂で断食明けの食事イフタルを取る者までいた。その当時は、これに愕然となり、『あってはならないことだ』と自分に言い聞かせたものだ。・・・」(拙訳)
どうやら、政教分離主義、イスラム主義の双方に、そういう振りだけする人たちが出現していたらしい。
レシャット・ヌーリ・ギュンテキンの小説「イエシル・ゲジェ(緑の夜)」にも、オスマン帝国の末期から共和国が誕生するまでの激動期を抜け目なく立ち回って保身に成功した“エユップ師”という狡猾な老人が登場する
小説の主人公シャーヒン・エフェンディは、オスマン帝国の末期、新しい西洋式教育の責任者として、地方の小学校に赴任したが、校舎を新設するために、古い廃墟同然の“メドレセ(旧来のイスラム教育機関)”を取り壊すことになると、メドレセ関係者たちの激しい抵抗に合う。
シャーヒン・エフェンディの聡明さに危機を感じて、足を引っ張ろうとしたエユップ師も秘かに抵抗運動を支えていた。
しかし、抵抗運動は下手な小細工から失敗に終わり、シャーヒン・エフェンディの名声はいよいよ高まったが、まもなく一帯は侵略してきたギリシャ軍に占領されてしまう。
すると、エユップ師は、直ぐ様ギリシャ側へ寝返って、シャーヒン・エフェンディを彼らに売り渡す。捕縛されたシャーヒン・エフェンディはギリシャに連れて行かれ、艱難辛苦の末、共和国革命の後になって、ようやく赴任先の町に戻って来て驚く。
エユップ師が、モダンな帽子を被って、すっかり“共和国の人”に様変わりしていたからだ。そして、シャーヒン・エフェンディは、エユップ師の偽証により、またしても町を追われて行くのである・・・。
著者のレシャット・ヌーリ・ギュンテキンは、オスマン帝国の末期に、やはり教育者として地方の学校へ赴任しているので、この小説は、かなりの部分が自身の体験に基づいて書かれたのではないかと言われている。
西欧的な文化人であり、新しいトルコを望んでいたレシャット・ヌーリ・ギュンテキンは、それでも問題点をイスラムに求めているようだけれど、変幻自在に立ち回るエユップ師を見たら、オスマン帝国時代のイスラムにしても、共和国の政教分離にしても、上からの圧力で画一化を図ろうとした所が問題だったように思える。
小説の中で、シャーヒン・エフェンディは、仕事も家族もある民衆が、彼らを惑わそうとするメドレセの妄信者たちから、それほど影響を受けていないことに気がついて、これに希望を見出していた。
「・・・自分の世界のごたごたで忙しい本来の民衆・・・」と表現されていたが、産業化により、ますます忙しくなった現代のトルコの人々は、常に現実を見極めながら、そう易々と妄信に惑わされないだろう。貧しさなどから教団に引き込まれてしまうようなリスクも減少していると思う。
また、例えば、クズルック村の工場のように健全な生産現場では、エージェントのペテン師やエユップ師みたいな立ち回りが功を奏する可能性も余りなさそうだ。技術力とそれを示す数字がなければ、如何に巧く立ち回ったところで徒労に終わるのではないか・・・。
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