メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

高級官僚氏と美人の女房

96年、日本で長距離トラックの運転手をしていた頃の話である。 
4月の引越しシーズンを迎えると、引越し専門各社は、中小の運送会社から大量の代車を受け入れて、これで何とかシーズンを乗り切る。私もこの年、3月中旬から4月末まで、10トン車で某引越しセンターに配属となっていた。 
ある日、名古屋から広島までの運行を命じられて、夕刻、引越しセンターの名古屋支店に赴くと、引越し荷物は、既に支店の倉庫に搬入されており、数多の倉庫要員が手伝ってくれて、一軒分としてはかなり多い“10トン車7割分ぐらい”の荷物が、あっという間にトラックへ積み込まれた。 
『これは幸先良いぞ』と思いながら、輸送指令書を良く見たところ、広島の搬入先は“某省官舎・4階・エレベーター無し”と記されていたので、がっかりした。そうそう何でも上手い具合には行かない。
夜、トラックを走らせ、夜明け前に広島支店の前につけて仮眠をとっていると、朝、いつものように引越しセンターの人が起こしに来てくれた。それから、各トラックへ搬入要員が割り振られたけれど、私のところへ来たのは、引越しセンターの高校生アルバイトが一人、外注の赤帽さんが二人だけだった。しかし、代車の身分では、引越しセンター自体が“お得意様”だから文句も言えない。 
まあ、高校生のバイトは、なかなかしっかりしているように見えたし、私と同年輩の赤帽さんも頼りになりそうだ。
早速、バイトを助手席に乗せ、赤帽さんの先導で搬入先住所へ向かうと、そこは、同じような4階建ての古い建物が4棟ほど並んだ団地であり、他にも沢山のトラックが来ていて、それぞれの引越し荷物を大勢の人たちが群がるように手伝いながら搬入していた。 
『しめた!』と秘かに喜び、群がっている中の一人に搬入先の住所を尋ねたら、彼は手拭で汗をふきふき指令書に記されている住所を見て、残念そうにこう言った。
「うーん、これはキャリアさんだなあ。この向こう側の棟の一番奥の階段ですね。でも悪いけれど、キャリアさんの搬入は手伝わないことになっているんですよ。だって、金出せば、大勢の手がつく高級な引越し会社を使えるでしょ。お宅は何人で来ているの? えっ、4人? そりゃ大変。まあ頑張って下さい」
これを聞いて、私も、バイトも、赤帽さんも、皆でがっかりしながら、トラックを奥の階段の下に着けたところ、上から見ていたのか、その“キャリアさん”が下りて来て、「やあ、ご苦労様です」と挨拶した。
“キャリアさん”といっても未だ30代前半ぐらいの若い男で、高級官僚とは思えない気さくな雰囲気が漂っていた。
「エレベーターが無くて大変ですが、手伝いの人たちも来てくれるみたいだから、なんとかなるでしょう」と言うので、今さっき聞いた話を伝えると、「えっ? なんでそんなこと言うんだろうなあ」と、一瞬、顔を曇らせたものの、直ぐに元の笑顔に戻り、「しょうがない。私も手伝いますよ。力だけは自信があるから、私にどんどん重いものを寄越して下さい」と腕まくりして見せた。実際、がっしりとした体育会系風だった。 
私はトラックの荷物を端へ寄せたりしなければならなかった為、皆が荷物を何度か運んだ後になってから、搬入を手伝って4階に上がった。
そこでは、客間らしい大きな部屋の中央に、キャリアさんの女房と思われる若い女が“見取り図”を片手に仁王立ちし、厳しい口調で「ハイ! その箪笥はそこです」と指示を飛ばしていた。
女は若い頃の浅野ゆう子を彷彿とさせる美人だったが、亭主と違って愛想は全く無し、荷物を置いた後に「ご苦労様」の一言も無し。なんだかお里が知れるように思えた。 
それから、その間取りの広さに驚かされた。内装も豪華になっていて、外から眺めた時のボロ官舎とはえらい違いだった。世間を憚って、わざと外装は汚くしたままなのかもしれない。
少し経ったら、先刻、キャリア宅の搬入は手伝わないと言ってた人が大勢の仲間を連れて駆けつけてくれた。キャリアさん本人が先頭に立って汗を流しているのを見て、『これは手伝わなければ』と思ったのだろうか。 
ところが、大勢の助っ人により、搬入も先が見えて来た頃になって、一騒動持ち上がってしまった。
あの“浅野ゆう子”が客間でヒステリックな金切り声を上げて、バイトの高校生に詰め寄っているのである。搬入された家具にほんの小さなキズがついていたらしい。
赤帽さんの話では、女の「キズがある!」というクレームに、バイトは自ら「僕が引越しセンターの責任者です」と名乗り出たという。
しかし、“浅野ゆう子”は、相手が高校生のバイトだろうが誰だろうが全く見境はなかった。亭主の方はと言えば、玄関の所に立ったまま、申しわけなさそうな顔して周囲を見渡すだけで、女房には何も言えないようだった。 
引越しの仕事は、その1ヵ月の期間しか経験がないけれど、様々な家庭の内部事情まで見えたりして、なかなか面白かった。高級官僚になったり、美人の奥さんがいたりしても、決して羨ましい話ばかりじゃない。

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