メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

犠牲祭/ISISのテロ

今日(10月4日)は、犠牲祭の初日だった。トルコの人たちにとっては、日本の正月のようなものじゃないかと思う。
昼過ぎてから、サルガーズィまで歩いて行った。40分ぐらい掛かる。途中、方々で生贄が屠られているのを見た。年々規制が強まり、もうイスタンブール市内では、指定の屋内施設を利用しなければ、屠殺は許されなくなっているが、この辺りはイスタンブールの市内に数えられていないのだろう。
サルガーズィの中央は、人通りも多く結構賑わっていた。“手回し回転椅子”や“パンチングマシーン”で楽しむ親子連れがいたりして、祝祭日らしい雰囲気も感じられた。
アフリカから来た人たちも、腕時計等の行商に精を出していたけれど、彼らは何処で商品を仕入れて来るのだろう? それ以前に、なんで腕時計なのか良く解らないが、彼らの主要アイテムは、大概、この腕時計である。

さて、犠牲祭などで、生贄が屠殺されることについては、かなり偏見があるかもしれない。
最近は、ISISのテロリストによる斬首が日本でも話題になっていて、ある識者は、「ムスリムにとって、生贄の首を切るのは容易いことだから・・・」などと語っていた。これでは、トルコの農村で育った人たちは、皆、容易く“人殺し”も犯せることになってしまう。
私が3年半暮らしたクズルック村には、相互扶助の精神が根付いていて、人々は穏やかで優しかった。治安も極めて良好だった。あの地域は、黒海地方から移住してきた人たちが多く、拳銃の所持は当たり前になっていたが、強盗事件などまず聞いたことはない。家のドアに鍵を掛ける必要性さえ殆ど感じていなかった。
まあ、残念ながら、「名誉を傷つけられたことによる衝動的な殺人」は、身近で一つ起きているけれど、実行犯は拳銃を使い、しかも扱いに慣れていなかったのか、至近距離で的を外し、狙った相手の父親を殺してしまったそうである。
そもそも、「羊の首を切っているから、人の首も容易に切れる」なんて考えるのは、何だか幼稚な連想のように思える。あのテロリストたちは、流暢な英語を話していたらしいが、イラクの農村で育った若者なのだろうか? そうではなく、もしも、西欧で育っているのであれば、犠牲祭で羊を屠った経験などなかったかもしれない。
また、「動物の屠殺に慣れている人は、人も容易に殺せる」と言うのであれば、これは、屠殺を生業にする人たちへの差別に繋がってしまう。「ムスリムにとって、生贄の首を切るのは容易いことだから・・・」は、非常に軽率で不見識な発言だったと思う。
他にも、欧米に対して、ISISとイスラムを擁護すると言いながら、「イスラム法やその教義によれば、彼らの行為はそれほど不当なものでもない」などと解説する“識者”の方がいる。その意図が何処にあるのか解らないが、これを聞いた日本人の多くは、『イスラムって、やっぱり恐い宗教なんだ』と感じてしまうだけのような気がする。これでは、イスラムフォビアを広めたい欧米の思う壺じゃないだろうか。
トルコでは、かなり敬虔なムスリムであっても、既に“イスラム法による統治”などは望んでいないように見える。欧米の敬虔なクリスチャンが、キリストの教えを社会の中で役立てているのと同じように、イスラムの教えを活かそうとしているのではないかと思う。
私も長い間、“イスラム特殊論”に振り回されていたから恥ずかしい限りだが、何故、イスラム教徒だけがその教義に、時代性を考慮しないまま、拘束されてしまわなければならないのだろう? ムスリムが、21世紀の現代社会を生きたらいけないのだろうか?
仏教徒も釈迦の時代に立ち戻るのであれば、その教えの根本は“解脱”にあったはずだ。修行を積んでも解脱できない人には、“即身仏”という手もある。もちろん、冗談だから本気にされても困るけれど、例えば、クリスチャンがその教義に忠実であるならば、「右の頬を打たれたら、左の頬を差しだしなさい」というのだから、911で“ワールドトレードセンター”がドカンとやられた時は、「どうぞ、エンパイヤーステートビルのほうもドカンとやって下さい」と差し出すべきじゃなかったのか?
あまりにも下劣な冗談で申し訳ないが、911の当時、あのテロ行為をイスラムの教義に結び付けて論じる人は少なくなかった。それなのに、キリストの教えに相反する“報復処置”に出た米国を、教義に結び付けて批判する人は余りいなかったような気がする。

f:id:makoton1960:20191012000007j:plain

f:id:makoton1960:20191012000037j:plain

f:id:makoton1960:20191012000101j:plain