メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

戦後、日本は鈍感になったかもしれない。

19世紀の末、西欧列強に抵抗したアフマド・オラービーというエジプトの政治家がいたそうだ。ウイキペディアの記述によれば、アフマド・オラービーは、明治維新による近代化の成功について、当時の日本には生糸ぐらいしか産業がなく、西欧列強にとって、スエズ運河を有するエジプトほど重要ではなかった為、干渉を受けずに済んだからだと考えていたらしい。
しかし、スエズ運河の利権など、まだ序の口だった。戦後、イスラエルが独立し、中東各地で油田が発見されると、欧米にとって、その重要度はさらに増してしまう。流血の事態が繰り返され、それこそ近代化どころではなかったに違いない。
日本では油田が発見されなくて良かった。石油が出ていたら、GHQの占領政策は大分異なるものになっていただろう。
戦前、日本は、国内にこれといった資源がないため、資源を求めて大陸へ進出し、悲惨な戦争に明け暮れた。そして、太平洋戦争で叩きのめされ、やっと武力を放棄して平和な国になる。では、戦後、資源はどうしたのだろう? “利用するのを諦めた”なんてことはない。それどころか、その消費量は何倍も増加している。
戦後の世界では、欧米が軍事力を背景にして産油国等を間接的に支配し、日本もその秩序の中で、資源を調達し続けて来た。戦前は、直接関わっていたのに、戦後はそれが間接的になって見えなくなっただけのような気もする。
これは、肉を美味しく食べながら、屠殺の光景に目を背けているのと変わらないかもしれない。

2005年1月21日付けラディカル紙のコラムで、ヌライ・メルト氏は以下のように述べていた。
「この世界で生きることにはそれなりの代価があるはずだ。私たちの近くに存在する生物の命は、この代価を思い出させる為に重要である。近代的な思考の薄弱さは、代価を支払わずに生きていけるという虚構へ逃れようとしてしまう。これは人間の感受性を高めたりはしない、逆に人間を鈍感にさせ、無責任なものにする。・・」(拙訳)
ひょっとすると、戦前に比べて戦後の日本は、とても鈍感になっているのではないだろうか? 少なくとも、時として自ら手を下してきたアメリカは、遥かに感受性が高いように思える。 

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