メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

独裁的なエルドアン首相

トルコへ来る前に、日本でトルコについて書かれた本を何冊も読んでいたが、その中に、1960年のクーデターで失脚し、絞首刑に処されたメンデレス首相を「独裁者」と表現する件があった。

後年、同様の本を読んでいた友人から、「“独裁者”がいとも簡単に失脚してしまうのは腑に落ちなかった」と言われてハッとした。私は大して疑問にも思っていなかったけれど、言われてみれば確かにそうだ。

激しい民衆の暴動などがあったわけでもないのに、軍部の介入で政権から引き摺り下ろされ、死刑になってしまう“独裁者”が何処にいるだろうか?

他にも、「トルコは、国民の殆どがトルコ人からなる単一民族国家」といった、今から思えば何とも驚くべき記述を、四半世紀前の日本で、私は当たり前に納得しながら読んでいた。オスマン帝国の歴史について、高校の教科書程度の知識があれば、少しは不思議に感じても良かったはずだ。

だから、91年、トルコへ旅立つ直前に読んだ「トルコのもう一つの顔 (中公新書)」は、なかなか衝撃的な内容だった。

しかし、その年、イズミル学生寮で、そして翌年には、イスタンブール学生寮で、多くのトルコ人学生が「クルド人の存在」を認め、「民族としてのトルコ人は、人口の三割にも満たない」なんて話を平気で交わしているのを見て、何だか奇妙な安堵を覚えた。

先日は、今また日本で「独裁的」などと報道されているエルドアン首相が、1915年の“アルメニア問題”に対して、“哀悼の意”を表明していたものの、トルコ民族主義のMHPから、“お決まり”の反発が出ただけで、それほどの騒ぎにもなっていない。

我が街の写真屋のメフメットさんも、「別に騒ぐほどの内容じゃない。エルドアンは当然の話をしただけだ。10年前なら大変なことになっていたかもしれないが、もう時代は変わった」と冷静に受け止めていた。

一昨日、憲法裁判所のハシム・クルチ長官は、その式典で、“独裁的なエルドアン首相”らを前にして、直接名指しを避けながらも、首相とAKP政権を厳しい調子で非難していた。首相の“側近”と目されているジェミル・チチェック国会議長が、「我々は叱責を受けに出向いたわけじゃない」とこぼしたほどである。

これには、エルドアン首相を英雄視する少なからぬ支持者たちが反発しているようだ。彼らは、エルドアン首相がもっと英雄的に、独裁的に振舞ってくれることを願っているのかもしれない。

エルドアン首相のAKPは、2002年に政権へ就いたものの、2007年までは、憲法裁判所長官出身のセゼル大統領が、様々な法案に拒否権を発動するため、とても政権を掌握している状態とは言えなかった。トルコ共和国の実質上の支配者とされていた“トルコ軍”がクーデターを起こす可能性もあった。

やっと自分たちの政権を手にしたと喜んだ民衆も、この展開にはやきもきしていただろう。その後、2007年7月の総選挙でAKPが大勝、翌8月ギュル氏が大統領に選出され、AKPは政権の基盤を固めた。

こうしてAKPの権威も徐々に高まり、支持層の民衆がホッとしたのも束の間、昨年の6月にはゲズィ公園騒動が勃発、先月の地方選挙でAKPが勝利するまで、緊張した激動の日々が続いてしまった。

支持者たちにしてみれば、エルドアン首相は独裁者どころか、体制的なエリート層から絶えず攻撃を受けている「我らが英雄」といった感じではなかっただろうか。

そして、この緊張が続く限り、エルドアン首相は民衆の支持を失わないという説もある。だから、ハシム・クルチ憲法裁判所長官の政権批判は、再び緊張を作り、却って政権に利したかもしれない。