メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

ザマン紙とフェトフッラー・ギュレン教団

昨日、ザマン紙のコラムで、エティエン・マフチュプヤン氏が“疑獄事件”について、とても興味深い記事を書いていた。

「今後、政府が不正取調べの結果に対して必要な処置を取ると宣言し、且つ組織改変の理由を明らかにして、これが暫定的なものであると国民を説得できれば、政府は無傷ですり抜けてしまうかもしれない」と言うのである。

マフチュプヤン氏によれば、大多数の人々にとって、これから続く地方選挙、大統領選挙、国政選挙は、不正の有無や司法への介入問題などより遥かに重要となる。不正等は一時的な事象で、3年も経てば忘れ去られるが、選挙の結果は、向こう10年に亘って影響を残してしまうからだ。

そして、選挙でAKPに対抗する野党勢力は、保守層から否定的に見られている。過半数を占める人たちは、AKPの過去10年の成果が失われることを恐れているだろう。このため、選挙になれば、AKPが勝ち続ける公算が大きいとマフチュプヤン氏は分析している。

確かに、まだトルコでは、多くの人々にとって、役人の不正など日常茶飯事に過ぎないかもしれない。それよりも、引き続き経済が潤滑に回ってくれることを願っていると思う。

イスラム的保守層の中で、これまでAKPを支持して来なかった人たちが、今回はAKPに投票するのではないかという声も聞かれる。

実際、一昨日、うちの近所のスーパーでは、“ハジュ(巡礼者)”と綽名される信心深い経営者の青年が、お客たちから、「おい、今度はちゃんとAKPに入れるんだぞ」と締め上げられていた。どうやら、ハジュ青年は、故エルバカン氏の信奉者で、イスラム守旧派政党を支持してきたらしい。

その向かいのジャー・ケバブ屋さんは、フェトフッラー・ギュレン教団系であるザマン紙の購読を止めたそうである。「フェトフッラー・ホジャ(師)もなんていうことを・・・。あの人はもう終わったね」と切り捨てていた。つい1ヵ月ぐらい前でも、「ホジャ・エフェンディ(師匠様)」と呼んでいたのに・・・。

ザマン紙は宅配制度で部数を伸ばして来たものの、この事件を機に購読契約をキャンセルする人が増えているという。

上述のマフチュプヤン氏もザマン紙であり、偏向のない記事を書くコラムニストが少なくないから、購読を止めてしまうのは残念な話だけれど、そもそもコラム記事にまで目を通していた購読者は、それほど多くなかったかもしれない。

部数では大衆紙と肩を並べていても、ザマン紙は高級紙と言って良い。フェトフッラー教団も決して大衆的な広がりは持っていないような気がする。この教団をイエズス会になぞらえる識者もいる。組織は教養のある信徒らによって支えられているそうだ。カルト的な要素は否定できないが、その尊師の存在が求心力となってエネルギーを生んでいるのだと思う。

今回の事件が、アメリカの差し金であるというのは、あくまでも風説に過ぎないけれど、教団に、アメリカやイスラエル寄りの姿勢は確かに見受けられた。ガザへの輸送船がイスラエル軍に攻撃され、トルコ人の犠牲者が出た事件でも、フェトフッラー師は、イスラエルという国家の権威を無視して行動した輸送船の人たちを批判していた。

また、これも陰謀話の読み過ぎかもしれないが、陰謀には、それと知らずに利用されてしまう人たちが少なくないらしい。

いずれにせよ、今回の騒動は、トルコに何の益ももたらさない。教団が、本来の文化的なエリアで活動を続けてくれたらと思う。以下に、教団の人たちとの楽しい思い出を記してみたい。

98年にソウルで、フェトフッラー教団が開いたトルコ語学校を訪れたところ、そこにいたトルコ人留学生から誘われて、彼らが住んでいる下宿にも案内され、一泊することになってしまった。ソウル大入口駅の近くだったと記憶している。 

この下宿、驚いたことに住んでいるのは、全てフェトフッラー教団関係と思われるトルコ人留学生だった。夕方、礼拝の時間になったら、皆、玄関に集まり、トルコの大学の法学部の教授であるという方の先導で、一斉に礼拝していた。 

この教授の方は、当時、客員教授として日本の大学に来ていたそうだ。ソウルには、シンポジウムに参加するため、2週間程度の予定で滞在していたらしい。その日は教授も下宿に泊まっていた。 温厚な感じの紳士的な人物だった。礼拝が終わると学生たちに、いろんな話をしていたが、次のような話が印象に残っている。 

「トルコは、日本をモデルにしようとしているが、日本に1年住んでみた印象からすると、両国はまだ隔たりが大きすぎて、目標にするのは難しいと思う。そこへいくと、韓国はもっと近い目標になるし、韓国とトルコはとても似ている面が多いように感じた。当面、この国を目標にするのはどうだろうか?」 

「イギリスに滞在していた頃、イギリス人の教授たち9人と食事に行くことになった。彼らは私に遠慮して、豚肉等のないレストランに行こうと言う。私は、“民主主義だから、貴方たちが行きたいところへ行ってくれ、私はそこで適当なメニューを選ぶことにする”と言ったけれど、結局、彼らも譲らず、私に合わせたレストランへ行くことになってしまった。イギリス人はとても紳士的な人たちだと思った。しかし、イギリスに滞在している間に、私を自宅まで招待してくれて、家族のように付き合ってくれた教授は一人しかいなかった。その人はギリシャ人だったよ。私たちは文化的に近いと思った」