メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

2014年のトルコ

謹賀新年。明けましておめでとうございます。

2014年は、トルコにとって、どんな1年になるだろうか?

昨年は、“クルド和平のプロセス”がいよいよ現実味を帯びて来る中で、希望に溢れる1年の幕が開いたけれど、6月の“ゲズィ公園騒動”を境に影が差し始め、最後は、“疑獄事件”の騒乱の中で幕を下ろしている。そして今年は、騒乱の治まる気配もないまま、不安に満ちた年明けとなってしまった。

しかし、今のところ、“クルド和平のプロセス”は、“ゲズィ公園騒動”にも“疑獄事件”にも影響を受けることなく続いている。この点から見れば、昨年のトルコは、かつてない“平和な1年”を過したと言えるだろう。

今日、ザマン紙のエティエン・マフチュプヤン氏は、“クルド人の知性が皆に必要だ”と題されたコラムで、クルド人政治勢力が、“ゲズィ公園騒動”で政府の強権を非難し、“疑獄事件”で不正の追及を要求しながらも、決して反AKPのサイドに与しなかった知性を評価していた。

クルド人たちが、人権と自由を語り合い、その誠意に信頼を寄せられる“政治的なパワー”は、AKP以外にないと言うのである。

マフチュプヤン氏が、年頭のコラムで、この“クルド和平のプロセス”に言及したのは意義深い。それは、トルコが解決しなければならない最も重要な問題であるからだ。これを解決せずして、トルコ共和国がその将来を築くことは不可能だろう。

現在進行中の“クルド和平のプロセス”を反故にしようとすれば、トルコ共和国そのものを反故にしてしまう危険性すらあると思う。

AKP非難に血道を上げながら、“クルド和平のプロセス”には、言及さえしようとしない人たちは、いったいトルコをどうしてしまうつもりなのか・・・。

でも、希望の輝きは、まだ少しも失せていないかもしれない。例えば、エルドアン首相は、年末の遊説で、“疑獄事件”の裏には陰謀があると決め付けながら、その陰謀は“クルド和平のプロセス”を台無しにしようとしていると訴えていた。これは2年前でも想像できなかったはずだ。

エルドアン首相のAKP政権は、クルド問題に対して、とても慎重に歩を進めて来た。“クルド語による教育”等が分割の道標に成りはしないかと見極めつつ、クルド側と話し合いを続け、おそらくは、同時に政府内部・軍とも調整を重ねて来たのではないだろうか。

トルコ軍では、多分、1994年から2007年まで、クルド勢力の武力制圧を主張する軍人たちが主流派だったと考えられている。それが、この数年で大きく変わってきた。今やトルコ軍も“クルド和平のプロセス”を後押ししているようだ。

AKPは、軍の反発だけでなく、“トルコ民族主義的な国民”の反発も恐れていたに違いない。なにしろ、自分たちの票基盤の一部は、この“トルコ民族主義的な国民”たちである。その為、クルドとの和平を模索しながら、選挙が近づくと一歩後退して、トルコ民族主義的な主張を繰り返したりしていた。

それが、選挙を前にした遊説でも、「“クルド和平のプロセス”を守ろう!」と国民に訴えるようになったのである。これは、昨年の1年を通して続いた平和により、“クルド和平のプロセス”が既に国民の信を得ているという自信の表れだろうか? いずれにせよ、画期的な出来事じゃないかと思う。

2006年4月のミリエト紙の記事で、ジャン・デュンダル氏は、クルド和平から一歩後退したエルドアン首相を批判しながら、故オザル大統領の“勇気”を称えている。

しかし、あのオザル大統領の勇気は、クルド和平に何をもたらしただろう? 間もなくして、オザル大統領は不審な死を遂げ、その後はクルドの人たちにとって悪夢のような日々が続いてしまった。

政治に必要以上の勇気など出されても困る。

今回の“疑獄事件”で標的にされたハルク銀行は、イランとの石油の取引に使われていたが、経済封鎖が強められ、金による決済も認められなくなった以降は、この取引を一切停止しているとAKP政権は弁明している。本当だろうか?

その後も、北イラクとの石油取引に、このハルク銀行を使おうと交渉を進めていたらしい。結局、北イラク側がイラク中央政府と合意して、ハルク銀行は外されてしまったが、やはりこれは“外された”のであり、トルコ側が「どうぞ外して下さい」と譲歩した可能性はないようである。その後もユルドゥズ資源相は、ハルク銀行に誘致してみせると強気の発言を繰り返している。これが過剰な勇気でなければ良いのだが・・・。

この2014年も、トルコにとって、平和な1年となるように祈りたい。